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かねてより、【心 de 経営】ということを基本に、永年コンサルティングをして参りました。「de」は、フランス語の前置詞で、英語にしますと「of」に近い意味合いであり用法であると認識しています。
「de」を、英語の「of」の意味で用いますと「心 of 経営」、すなわち「経営”の”心」となります。「de」を、そのまま、日本語の「で」に置き換えますと「心で経営」となります。
「心」を大切にしますと、人間関係が良くなるだけではなく、論理的な思考だけでは見えてこないものが見えてきます。
歴史を紐解きますと、「なぜ、主人公は、あのような決断をしたのだろうか」「もし、あのようなことをせずに、このようにしたら歴史はどのように変わったのだろうか」などと「歴史に”もし”は禁物」にも触れたくなります。
それが、ビジネスパーソンに想定外のヒントを与えてくれることがあります。
歴史を理解するには、あるいはグローバル化の時代に海外の人を理解するには、宗教の特質も理解しなければならないことが多々あります。
歴史や宗教、哲学など、私の専門外の分野で感じたことを経営やコンサルティングにも応用できないかと徒然に書いてまいります。
物事や人の心には多面性があります。お届けするブログが正論であるか否かは、皆様のご判断にお任せしますが、参考にして下さいますと幸いです。
(ドアノブ)
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■ 明恵 茶の普及に貢献
みょうえ
承安3年1月8日(1173年2月21日) - 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗
鎌倉時代前期の華厳宗の僧
紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。
その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。
華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。
代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。
栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。
【Wikipedia】 明恵
承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。
治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。
(ドアノブ)