コンサルタントバンク コンサルタント(プロ・希望者)+ 士業の異業種交流会

コンサルタントバンクは、コンサルタントや士業の先生方の異業種交流会で、無料で登録できる組織です。関連情報をお届けします。

■【きょうの人】 0703 ■ 加藤 楸邨 日本の俳人、国文学者 ■ 堀田 正英 江戸時代前期の大名

2021-07-03 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0703 ■ 加藤 楸邨 日本の俳人、国文学者 ■ 堀田 正英 江戸時代前期の大名

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 加藤 楸邨 日本の俳人、国文学者

 かとう しゅうそん
 1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)

  日本の俳人、国文学者で、本名は健雄(たけお)、水原秋桜子に師事しました。

 はじめ「馬酔木」に拠りましたが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなりました。

 人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求し、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれる会派を立ち上げました。

 戦後は、戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開しました。また主宰した「寒雷」では、伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てました。


■ 堀田 正英 江戸時代前期の大名

 ほった まさひで
 寛永15年(1638年)-貞享5年7月3日(1688年7月29日)

 江戸時代前期の大名、常陸北条藩主で、江戸幕府の若年寄も務めました。

 寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれ、寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となりました。

 万治2年(1659年)に、中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられ、頭角を現してきます。

 その後も、書院番頭、大番頭と要職を歴任するようになり、延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられました。

 その後、若年寄に任じられ、1万3000石大名となり、常陸北条藩主となりました。

 貞享5年(1688年)7月3日に死去、享年51才でした。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0702 明智 光秀 NHK大河ドラマで見直されました

2021-07-03 06:46:00 | 【心 de 経営】 歴史・宗教に学ぶ経営

■【きょうの人】 0702 明智 光秀 NHK大河ドラマで見直されました

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 明智 光秀 NHK大河ドラマで見直されました

 あけち みつひで
 不明 - 天正10年6月13日(1582年7月2日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で、本能寺の変で、その名はよく知られています。 

 清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に生まれ、父親の名前も伝わらない低い身分でした。そのため、歴史舞台に登場する前野光秀の詳細は、あまり伝わっていません。

 土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556年)に、道三が、息子義龍と長良川の戦いを行い、道三に味方した光秀は、義龍に明智城を攻められ、一族が離散しました。

 室町幕府の将軍足利義昭は、織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促しました。朝倉義景の世話を受けていた光秀は、義昭が義景を頼ったことを契機に、光秀は義昭と接触を持つこととなりました。

 一時期、義昭と信長の両属の家臣でしたが、光秀は、金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功しました。

 比叡山焼き討ちでは、実行部隊の中心として武功を上げ、近江国の滋賀郡を与えられ、間もなく坂本城を築城します。

 この頃から信長に重用されます。ところが、原因は、いまだに明白ではありませんが、信長に反旗を翻し、本能寺の変に至ります。

 羽柴秀吉に攻められ、配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されました。最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けることを言い残したといわれています。

 光秀の娘珠(後の細川ガラシャ)は、細川忠興の正室となっていることは、よく知られています。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする