ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

なんとなく分かった気がすること

2016-04-05 | 子育て日記

今朝、旅立った娘のことを思って泣いている話を聞いた。

仕事へ行く車の中で考えていた。

自分の息子がいなくなるとしたら私はどうするだろう。

 

息子の夢は地方ではなかなか叶わない。

いろいろ調べると大きな都市へ行かなければならない。

 

ふとばあちゃんが死んだときのことを思い出した。

私はかなり長い間引きずっていた。

あんまり引きずるので凹みすぎて何度も泣いて、たくさん泣いたらそのうち平気になるんじゃないかと泣き出す自分を止めようともしなかった。

でもいつまでたっても悲しくてそのうちなぜ悲しくない人がいるんだと思うようになった。

ひどい闘病生活を終えてなくなったご主人のお葬式で笑顔でありがとうと私に言った奥さんに聞いた。

「どうして私の方をなぐめるの。」

彼女は「うちの人はね、私に面倒をみさせてくれた。凄く頑張ったの。私もあの人も。私に手伝わさせてくれた。もし突然事故である日いきなり会えなくなることを思うとずっと納得がいくわ。」

 

やっと分かった。私が悲しかった理由が。

 

自分に納得していなかったからだ。

 

ばあちゃんにもう会えない寂しさに耐えられないのだとばかり思っていたけれど、そうじゃない。私は自分がばあちゃんにまた天国であおうと言える程、孫として振る舞っていなかった。そのことが心残りだったんだ。

自分のせいだった。やりきったという生き方をしなかった自分のせいでこんなにいつまでも泣いていたんだ。

そのことに気がついた。

 

 

息子が小さい頃のことも思った。

保育園に預けてすぐの頃、私は知り合いのおばあさんに息子が寂しがっているんじゃないかと思うとかわいそうで辛いといった。

おばあさんは「こうちゃんが寂しがっているんじゃないかと辛いのはね、こうちゃんじゃない。あなたが寂しいと思っているからなのよ。母と子はつながっているから離れていても通じてしまうの。こうちゃんがお腹が空いたと泣いたら、あなたの胸が張るでしょ。あなたが寂しいと思うからこうちゃんも寂しいと思うのよ。だからあなたは保育園で別れるとき、あなたも頑張ってね、お母さんも頑張ってくるからねと言って別れて、帰ったらよく頑張ったねといっぱい抱きしめてあげなさい。」

 

目から鱗だった。

 

私が寂しいと思うから子どもに伝わってしまう。

 

それから私も息子も「頑張ってくる」と言って別れるようになった。

 

決して私が送っていったとき息子はごねたりしなかった。その姿を私に見せないでくれと私も思っていた。みてしまうと1日中引きずる程落ち込むからだ。

息子は私にぜったい寂しがる姿を見せなかった。

 

たまに私が送っていけないとき、息子は私の母に連れて行ってもらっていた。

その時聞いた。保育園の先生から。

 

息子が母の車の後部座席の下で、まん丸くうずくまって隠れて車から降りようとしないことがあるということ。

やせ我慢をしていたのだ。

私が頑張ってくるからねというから、息子は「うん」と言うしかなかった。

私はショックで息子に聞いた。母はそんなこと言わないから息子は気分が乗らないときほかの子どもと同じように行きたくないと言っていたのか。

息子は「ばあばがね寂しそうだったの」

息子は母を一人置いて園に行くのが辛かったのだ。自分がそばにいた方が母がうれしいのだろうと思っていた。

 

母にも話して息子に「保育園でした楽しいお話しをみんな聞きたいと思っているんだよ」と言った。

 

息子は「ああ~それならえっとね・・・」とすぐに友達の説明など始めて、それからごねることもほとんどなかった。

 

あのときの息子。別れることが本当はどんなに辛いことだったのかなんとなく分かった気がする。夕方にはお迎えに行くと思っている私より、何時間も私と離れている時間の概念の薄い子どもはまるで終わりなんてないような感覚でいつ来るか分からないお迎えを待つのだ。

自分から子どもが親から離れるとき。

私は保育園に預けられたあの日の息子だ。

自分がいなければ辛いだろう。寂しいだろう。自分も離れたくない。

 

離れる日の息子は保育園に連れて行った私。

笑って「頑張ってくるからね」としか言えなかった私。

 

分かっているのだ。辛いだろう。大変かもしれない。寂しいだろう。でも言うしかないのだ。

 

「頑張ってくる。行ってくるからね。」

 

あの日息子がどんな気持ちだったのか今頃なんとなく分かる気がする。 

 

息子じゃない。「よし、頑張ってこい」と思える自分かということなんだろう。

ばあちゃんの時に知った「やりきったという生き方」

きっとこれなんだろうとなと思う。

足りない部分があればある程、私は自分のふがいなさのために心が充実しないだろう。

 

いつか息子が私を置いてどこかへ行くことがあったら、私はそれまでの苦労を全て踏まえて息子へ「お前のステージはこれからだぞ」と言えなければならないのだろう。

その日のために少しでも息子に生きて行く力を身につけて欲しい。親なんていつも、たった少ししか手伝わさせてもらえない。それでもやらせてくれたと思うことにしよう。

 

コメント (2)
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