家臣2,3人を連れて落ち伸びた大友皇子もこれが最期だと悟ったのでしょう、今の三井寺辺り「山前>ヤマサキ>」で縊焉して果てます。七月二十三日です。その翌日、七月二十四日には,もう大友皇子の頭<ミシルシ>(御亡骸)は、大海人皇子のいる不破関にある営<イホリ>の前に掲げられています。さらに、逃亡してい左大臣の蘇我臣・赤兄、大納言の巨勢臣・比等を捉えて遠地に流配され、右大臣の中臣連・金<キン>は処刑されていますが、その他はすべて許されています。ここに再び、世の中は平安になります。
そして大海人皇子はその后の滞在してのいた桑名などを回られて、倭の京<ミヤコ>に到着され、飛鳥浄御原宮に宮殿を作られ、翌年春正月、
“設壇場。即帝位飛鳥浄御原宮”
“壇場<タカミクラ>を設<ま>けて、飛鳥の浄御原の宮で、帝位<アマツヒツギ>に即<シロ>しめす。”
天皇に即位されたのです。この「高御座」があるということは天皇の所在地を示すものということにもなるのですから、再び、都が奈良の地に帰ってきます。それも人々の安心材料になって、天武時代の安定した政治体制が敷かれたのもいなめられませんよね!!!!
なお、すると、先の令和天皇の即位式に使われたあの高御座は、既に、天武天皇の時代にあったことが、この書紀の文からも分かります。その高御座を
そして大海人皇子はその后の滞在してのいた桑名などを回られて、倭の京<ミヤコ>に到着され、飛鳥浄御原宮に宮殿を作られ、翌年春正月、
“設壇場。即帝位飛鳥浄御原宮”
“壇場<タカミクラ>を設<ま>けて、飛鳥の浄御原の宮で、帝位<アマツヒツギ>に即<シロ>しめす。”
天皇に即位されたのです。この「高御座」があるということは天皇の所在地を示すものということにもなるのですから、再び、都が奈良の地に帰ってきます。それも人々の安心材料になって、天武時代の安定した政治体制が敷かれたのもいなめられませんよね!!!!
なお、すると、先の令和天皇の即位式に使われたあの高御座は、既に、天武天皇の時代にあったことが、この書紀の文からも分かります。その高御座を

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