私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

どうして、軽太子は祭紀用の銅の矢じりを用意したのでしょうか

2016-04-30 13:38:31 | 日記

 私が書いた穴穂命が作った「今時の鉄の矢じり」に付いてですが、改めて、「鏃」に付いて調べてみました。そこで、大変な誤りをしたことに気がつきました。改めに書きなおしますのでお許しください。

 軽王は弟穴穂命と相争うことになり、兵器を作り備えるのですが、兄の方は兵器は銅製の鏃を作り備え、弟は”今時”の鉄製で、最新式の矢じりを作った、と書いたのですが。これが誤りの元になっていたのです。

 此の事に付いて、本居宣長は、その古事記伝のなかに

   ”鏃は凡て神代より鉄以て造ることなるを、今新たに銅以て造れるなり。”

とあります。
 しかし、江戸期の鏃の研究はそれが通説だったのではと思いますが、現代の説では、日本に於いては「鏃」の登場する縄文後は石器が主で、弥生の頃から、青銅製と鉄製の矢じりが同時に使われ、主に鉄製は実践用に、青銅製は祭紀用に用いられております。だから、”今新たに銅以て造れるなり”という宣長説も誤りですが、私の説明した最新式の鉄の矢じりをだと書いたもの、また、誤りです。

 なお、”今時”について、本居宣長は、「今時普く用いる尋常の矢ということなり」と、説明がしてありますがそれが正しいのです。「今様」ではないのです。念のために。

 ここで不思議なのは、どうして木梨之軽王は銅製の矢じりを使ったかということです。鉄製と銅製、どちらが武器力として優劣かというと、言わずもがなです。そんな分かりきったことを、何故、軽太子ともあろうお方が戦術として用いたのかということです。これについては、不思議なのですが、本居宣長も何も書いてはおりません。

 なお、この戦いは5世紀の初め頃のこと(古墳時代)です


昭和天皇の珍しいお写真です。(皇太子時代)

2016-04-29 13:11:50 | 日記

 今日は4月29日、昭和の日です。昭和天皇を記念する日なのです。日本の激動な時代を頑なに生きぬかれた一人の神と崇められた天皇のある日のお姿を写したお写真を持っております。長年、私だけの宝物にと、じっと閉まっておいたのですが、久しぶりに出してみました。そこに映し出されているお姿を拝見すると、これからご体験なされるであろう種々な苦悩が、そのお体全体から伺われるように思われるのですが????誰も見たことのない珍しいお写真です。この写真から、日に日に遠くに過ぎ去って行く昭和をお偲びいただけるとありがたいのですが!!!!

                        

                

 


兄妹二人の禁断の恋の行方は??

2016-04-28 08:57:09 | 日記

 古代日本の国では結婚について、異母であるなら、例え兄妹、姉弟であっても、二人は夫婦となることは許されていたらしいのですが、同母ならその結婚は禁忌、絶対にあってはならない風習であったのです。それをあえて冒してまでのこの二人の行為に対して、当然、宮中の百官を始め人々からも非難の声が上がります。それも、允恭天皇の喪に服している最中の出来事なのです。
 この軽王は天皇の第一子ですから、当然、次の天皇になられるはずだったのですが、
 「このような禁忌の行為を、それも喪に服している最中に行うなんて言語道断だ。次期の天皇になるべきでない。弟君穴穂御子を天皇に」
 と、多くの役人や人々の間から声が上がります。そのような周りの人達からの批判から逃れるためでしょうか、軽王は大臣である「大前小前宿禰<オホマエオマエノスクネ>」の家に逃げ込みます。そして、

 “備作兵器”

 と書かれています。此の時、軽王が備えた矢の箭先は「銅<アカガネ>」だたのです。一方、穴穂御子の方でも

 “亦作兵器”

 と書かれております。この穴穂御子も、亦、兵器を新たに作ります。しかも、その矢の箭先は“今時<イマドキ>”です。「今時」とは「最新の」という意味で、鉄製のものだったのです。この物語のあった時代は4世紀の終わりごろです。当時の武器は、まだ、銅製の物が主流で、新しい鉄製の物も使われだした時代です。その今時、「鉄製」の矢を穴穂命の軍は用意したのです。銅と鉄、戦力の違いは明白です。
 なお、かって、吉備津彦命と温羅が戦った時の武器は、吉備津彦は銅製で、温羅は石器だったのです。その戦いの結果は明白だったように、この場合も2つの戦力が衝突すれば、結果は同じになることは明らかです。さて、どうする。軽太子!!!そして、二人の恋の結末は

 


 さ寝しさ寝てば

2016-04-27 11:16:38 | 日記

 軽の兄妹の熱い思いは、これで終わるのではありません。兄「木梨之軽王」の妹に対する愛の思いは、また、歌によって表されております。

          愛<ウルハ>しと さ寝しさ寝てば
          刈薦<カリコモ>の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

 と、歌います。「さ寝しさ寝てば」と、同じ言葉をを2回も繰り返して歌っております。二人は一つになれたその最高の嬉しさが言葉となって口から飛び出たのです。この歌から受ける感じは、事の終えたその後の気だるゐ気分をも取り越して、「やっと」二人が一人になったのだという幸福感が絶頂になった瞬間の男「軽王」の雄たけびのように聞こえてならないのです。

 なお、「さ}は語意を強める時に、また、「ば」は原因・理由を表し、そのことに続いて、また、次のことが起きる時に使う助詞ですが、これだけの短い歌の中に、「さ」「れ}「ば」を繰り返し使うことによって、作者の悦びの心の高ぶりを表現しているのではないでしょうか??? 昨日の歌と一緒に読んでいただけれは、その時の兄皇子の喜びがいかばかりであっただろうか、より強く理解できるのではないでしょうか。

 

     笹葉に 打つや霰の
     たしだしに 率<イ>寝てむ後は 人は離<カ>)ゆとも

     愛<ウルハ>しと さ寝しさ寝てば
     刈薦<カリコモ>の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

 古事記の中の最大の「愛の讃歌」です。


軽の兄と妹

2016-04-26 09:28:31 | 日記

 “夜須久波陀布禮安ー安く肌触れー”した兄と妹ですが、その後、その兄は、長年の要望がやっとかなえられた嬉しさだったのでしょうか、又も、歌を歌います。

 まあ、古事記を読んでみますと、感心させられることは その説明で、沢山の挿入歌が見えることです。ここでも、それからの此の二人の運命を、沢山の歌を交えながら、説明しております。

 前に続いての歌です。
 
 「佐佐婆爾<ササハニ>。宇都夜阿良禮能<ウツヤアラレノ>。多志陀志爾<タシダシニ>。韋泥弖牟能知波<イネテムノチハ>。比登波加由登母<ヒトハカユトモ>

 “・・・・・たしだしに、率寝<イネ>てむ後は 人は離<カ>ゆとも”とです。

「たしだちに、しっかりと堅くです。二人がしっかりと、このように堅く相結ばれた後は、例えあなたが私を嫌いになったとしても、此処で言う「人」とは妹の「衣通姫」の事です。私は、決して、怨む事はないだろう。あなたと結ばれてよかった。これ以上の幸せはありませんよ。」

 と、歌っています。
 数々ある日本の愛の賛歌の中でも、一番の心のこもった最高の愛の賛歌ではないでしょうか??最後にある「とも」という逆説の推定の助動詞を使うことで、兄のその時の総ての物を優先させた熱い思い、幸福感を、それ以上の言葉はないかのように書き現わしております。
 これも古事記という書物を読む魅力の一つなのです。

 

 貴方はどうこれをお読みでしょうか。ご意見を伺えるとうれしいのですが!!!!!!!!