その後、天皇は衣通郎媛のお住まいである茅渟宮<チヌノミヤ>に
“是後希有之幸焉<コノノチ マレニ ミユキシタマフコト アリヌ>”
とありす。そうすると、果たしてその前にある「希」と「屡」とは数字的に言うとどのくらいになるのでしょうか。天皇は皇后の
”百姓之苦、オホムタカラノ クルシミナラム”
の言葉に従って、先の“朕過也“事件の影響もあったのでしょうか、それ以後、常に、堂々と、<屡>、訪ねると言う云う訳にはいかなくぬなり、「希」にしか行かなくなったのですが。
なお、この「屡」と書かれた「九年」の項を見ると、二月・八月・十月の3回、「茅渧においでになった」と書かれてあるだけです。3回だけでは少なすぎますもの、もっともっと多かったのではないかと思われますがどうでしょうか。