私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

岡山の夏祭り「うらじゃ」  吉備の昔話(1)

2020-08-31 07:12:35 | 日記
 岡山の夏を彩る風物詩として、最近、頓に人気が上がっているものに「うらじゃ祭り」があります。今年は「コロナ」で中止になったのですが・・・この「うらじゃ祭り」の歴史は、まだ、始まってから10年にも満たないような最新のお祭りですが、吉備の地方に伝わっている古くから伝わる鬼神「温羅(うら)」の伝説を元にしてできたものです。その歴史をこの祭りに参加している人がどれだけいるかは定かではありませんが、あの桃太郎伝説と結びついた伝説です。全国的にはあまり有名にはなっていない「昔ばなし」です。そのお話も、藤井俊先生の「吉備津神社」にありますので、そこから引いてきました。お読みいただき、来年以降の「うらじゃ」の時に心の片隅にでも置いていただき見物なり、参加なりをして頂けたらと、例の私の物好きな老婆心とやらで、3,4回に分けて書きます。

 吉備の昔話(1)
 「・・・人皇第十一代垂仁天皇の御代、異国の鬼神がひこうして吉備国にやって来た。彼は百済の王子で、名を温羅(うら)ともいい吉備冠者とも呼ばれた。彼は両眼は爛々として虎狼のごとく、蓬々たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。りょ力は絶倫、性は剽悍で凶悪であった。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、さらにその傍の岩屋山の楯(城のこと)を構えた。そして、西国から都へ送る貢物をのせた船や、婦女子をしばしば略奪したので、人民は恐れおののいて彼の居城を「鬼の城(きのじょう)」と呼び、都に行ってその暴状を天皇に訴えた。朝廷は大変これを憂い、武将を遣わしてこれを討たせたが、彼は兵を用いること頗る巧で、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。そこで、つぎは武勇の聞こえ高い五十狭芹彦命(大吉備津彦命)が派遣されることになった。
 ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず「吉備の中山」に陣を布き、西は片岡山という所に石楯を築いて、防戦の準備をした(楯築遺跡)・・・」

その石楯を築いた場所です。・・

       

お釜殿

2020-08-30 11:01:02 | 日記
 「御釜殿」は藤井俊先生の「吉備津神社」に

 「備中早島の人、安原備中知種が慶長17年(1612年)に再建した。」

 とあります。なお、お釜殿は何時頃からあったのかは詳らかではないのですが、あの梁塵秘抄には出ていません。

        

「ここには阿曾女という二人の老女が奉仕し、一人がカマドを焚き、一人が釜の背後に立ってうらないの秘法を行なう。釜がさわやかに鳴ると良いしらせ、鳴らなかったたり低音であれば不吉なしらせであるとされる。このカマドの下には吉備津彦命の退治した鬼の首を埋めているという伝説さえある・・・」
 と、説明がり,


       
       

 さらに、
 「文献に見える最初は、奈良の「多聞院日記」である。すなわちその永禄11年(1568年)5月16日の記事に
 「備中の吉備津宮に鳴釜があり、神楽料二十疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという。稀代のことで天下無比である。」
 と記されている。」
 と。
 
 これからも分るように、室町時代には、既に、吉備津神社の鳴釜は行われていたのです。

"四時之相奪其必有不得其平者乎”とは、何ぞや??

2020-08-29 11:14:14 | 日記
 二,三のお方から、昨日の韓退之の詩の

 "四時之相奪其必有不得其平者乎”



 はどういう意味だ。と云う問い合わせ有り。私にもあまりその意味が解らなかったものですから、誰か教えてくれるかなと???思ってそのままにして置いたのですが。どんな意味でしょうかね・・・恥は十分に覚悟しながらお尋ねがありましたので、無理矢理に、私流の勝手な解釈をしますと、

 「この世の中にある四季「春夏秋冬」は、何時も、その時々で変化してその様相は、常に、平等ではなく異なっている。その違いを鳥や雷や虫や風の音を借りて表しているのだ。」

 と、くらいの意味がるのではないか????お笑いください。正解をお教えいただければとも?????

再び、"退之しらすや御釜の冬になるを以て”を・・・・

2020-08-28 10:47:20 | 日記
昨日。寛文6年(1666年)に出版された
        「標柱古文真宝」
 を捲っておりますと、偶然に、そこに韓退之の
        「送孟東野序」
 の詩に出くわしました。




そこに次のような詩があり、目を驚かせます。

   "擇其善鳴者而假之鳴(そのよくなるを選びて、これを借りて鳴る)”

 とあります。続いて、更に、「是故<コノユエニ>」として

  "以鳥鳴春。以雷鳴夏。以蟲鳴秋。以風鳴冬。"四時之相奪其必有不得其平者乎”
とあります。
 この歌を知っていた岡西惟中は、韓退之は「冬に鳴るものは風であって、その他の太鼓や水や、まして、お釜が鳴るなんて想像にもつかないことだったのではないだろうか」と思い、このお釜殿の不思議な,恰も,雷の音のような鳴釜の音を耳にして、
 「冬には風の音だけでなく、夏に鳴る雷のようなお釜殿の鳴釜の音もあるのだ。」
 ということを、若し出来たなら、退之に教えてやりたいものだと思って歌にしたのではと・・・

    "退之しらすや御釜の冬になるを以て”


ここらで「お釜殿」の歴史を・・

2020-08-27 06:49:16 | 日記
 古来より、「木下長嘯子」「岡西惟中」「成島柳北」を初め、吉備津神社に参りし人は、必ず、お釜殿の鳴釜神事のことについてその印象を書いております。ただ、かの今川了俊の「道ゆきぶり」には、当時お釜殿はまだ設置されてなかったので、「吉備津神社記」には、前に上げたように「きひの中山」と「細谷川」の他は何も書いてはおりませんが、念のために・・・
 今では全国的に吉備津神社のお釜殿の神事は他に見ない神秘なる神事として知らない人は皆無ではないかと思っております。その神事の様子をご紹介します。
 先ずは、写真でお釜殿の内部を

  

  

  

 ここでの神事の神事の写真も