岡山の夏を彩る風物詩として、最近、頓に人気が上がっているものに「うらじゃ祭り」があります。今年は「コロナ」で中止になったのですが・・・この「うらじゃ祭り」の歴史は、まだ、始まってから10年にも満たないような最新のお祭りですが、吉備の地方に伝わっている古くから伝わる鬼神「温羅(うら)」の伝説を元にしてできたものです。その歴史をこの祭りに参加している人がどれだけいるかは定かではありませんが、あの桃太郎伝説と結びついた伝説です。全国的にはあまり有名にはなっていない「昔ばなし」です。そのお話も、藤井俊先生の「吉備津神社」にありますので、そこから引いてきました。お読みいただき、来年以降の「うらじゃ」の時に心の片隅にでも置いていただき見物なり、参加なりをして頂けたらと、例の私の物好きな老婆心とやらで、3,4回に分けて書きます。
吉備の昔話(1)
「・・・人皇第十一代垂仁天皇の御代、異国の鬼神がひこうして吉備国にやって来た。彼は百済の王子で、名を温羅(うら)ともいい吉備冠者とも呼ばれた。彼は両眼は爛々として虎狼のごとく、蓬々たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。りょ力は絶倫、性は剽悍で凶悪であった。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、さらにその傍の岩屋山の楯(城のこと)を構えた。そして、西国から都へ送る貢物をのせた船や、婦女子をしばしば略奪したので、人民は恐れおののいて彼の居城を「鬼の城(きのじょう)」と呼び、都に行ってその暴状を天皇に訴えた。朝廷は大変これを憂い、武将を遣わしてこれを討たせたが、彼は兵を用いること頗る巧で、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。そこで、つぎは武勇の聞こえ高い五十狭芹彦命(大吉備津彦命)が派遣されることになった。
ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず「吉備の中山」に陣を布き、西は片岡山という所に石楯を築いて、防戦の準備をした(楯築遺跡)・・・」
その石楯を築いた場所です。・・
吉備の昔話(1)
「・・・人皇第十一代垂仁天皇の御代、異国の鬼神がひこうして吉備国にやって来た。彼は百済の王子で、名を温羅(うら)ともいい吉備冠者とも呼ばれた。彼は両眼は爛々として虎狼のごとく、蓬々たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身長は一丈四尺にも及ぶ。りょ力は絶倫、性は剽悍で凶悪であった。彼はやがて備中国の新山に居城を構え、さらにその傍の岩屋山の楯(城のこと)を構えた。そして、西国から都へ送る貢物をのせた船や、婦女子をしばしば略奪したので、人民は恐れおののいて彼の居城を「鬼の城(きのじょう)」と呼び、都に行ってその暴状を天皇に訴えた。朝廷は大変これを憂い、武将を遣わしてこれを討たせたが、彼は兵を用いること頗る巧で、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。そこで、つぎは武勇の聞こえ高い五十狭芹彦命(大吉備津彦命)が派遣されることになった。
ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず「吉備の中山」に陣を布き、西は片岡山という所に石楯を築いて、防戦の準備をした(楯築遺跡)・・・」
その石楯を築いた場所です。・・