私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「二百歳!!!」  驚くなかれ、そんな女(ひと)が・・・・

2019-10-31 08:49:18 | 日記
 孝霊天皇の后の一人が安寧天皇の皇女「意富夜麻登玖邇阿禮比売」ですが、ちょっと考えてみても、これは????と思われるのですが、古事記には、正式な日本の歴史として、堂々と何ら疑うことのなく書かれております。
 ③安寧天皇ー④懿徳ー⑤孝昭ー⑥孝安ー⑦孝霊・・・と天皇は続きますが、これらの天皇の在位年数は夫々
      49年ー45年ー93年ー123年―106年
 となっております。
 単純に「④懿徳」から「⑥孝安」までを計算しても「261年」もの時間があります。これから推定しても「アレヒメ」は200歳以上の年齢の時に「孝霊天皇」と結婚した計算になりますよね。しかも、「アレヒメ」の御子が、「私の町吉備津」のシンボル「吉備津彦命」なのです。生理的に考えても不可能なことになるのですが・・・
 これも「欠史八代」を実証できる一つなのです。

 なお、これも蛇足ですが、安寧天皇の御子「アレヒメ」ですが、その妹に
         “蠅伊呂杼<ハエイロド>”
 がいますが、この皇女も孝霊天皇に嫁して「若日子建吉備津日子命」を生んでおられます。

         これも歴史の綾か??

孝霊天皇の記・・・・

2019-10-30 08:43:09 | 日記
 「欠史八代」の天皇の内、「私の町吉備津」と一番関係のある天皇が

     “大倭根子日子賦斗邇命<オホヤマトネコヒコフトニノミコト>

 です。ご存じ漢様の御諡、「七代 孝霊天皇」です。此の天皇についても、やはり「欠史」の一人だとされるように、その歴史についても他の天皇と同じく后と御子だけ記されておりますが、唯一つだけ他の天皇と違っているのは、

     “大吉備津日子命與若建吉備津日子命”

 が播磨の冰河の前で忌瓮<イワヒベ>を据え、これからの地の戦勝を祈願して、そこを起点として、
     “言向和吉備国也<キビニクニヲ コトムケ ハヤシタマヒキ”


 と書かれていることです。

 なお、此処に出てくる「大吉備津日子命」の母親は、先に挙げた安寧天皇の皇女である
    「意富夜麻登玖邇阿禮比売命<オホヤマトクニアレヒメのミコト>」
 で、また、若建吉備津日子命の母親も「アレヒメ」の妹で安寧天皇の皇女の
    「蠅伊呂杼<ハエイロド>
 なのです。

 そうすると、この二人の御子の母親の存在がどうも怪しくなってきそうですよね、だって孝霊は七代天皇で、安寧は三代天皇ですから???その辺の計算は明日にでも・・・・

「大吉備諸進命」とは・・・・・

2019-10-29 08:37:59 | 日記
 第六代天皇は古事記では

    “大倭帯日子国押人命<オホヤマトタラシヒコクニオシビトノミコ>”

 です。此の天皇も「孝安<コウアン>天皇」と呼ばれておりますが、この名前は、後に付けられた中国風(漢様)の諡<オクリナ>です。日本書紀にも「孝安」と言う字はありません。何時頃から使われだしたのか分かりませんが、今では、この後の世に付けられた名前が一般的に成っているのです。

 なお、この「天皇」と言う言葉が初めて古事記に表れたのは、「イハレヒコ」が「イスケヨリヒメ」と初めて出会ったときに

    “以歌白於天皇曰<ウタモテ スメラミコトニ モヲシケラク>”

 と書かれている所です。これ以後、普通に<スメラミコト>として使われます。しかし、漢様の諡が付けられてからは「スメラミコト」が<テンノウ>と言う呼び方に変化しています。

 「大倭帯日子国押人命」については、たった90字ほどで簡単にその生涯が記されております。しかし、その年齢はなんと「欠史八代」の天皇としては一番長く123歳で亡くなられております。 
 少ない説明の中に、天皇の御子

      “大吉備諸進命<オオキビノモロススミノミコト>”

 がおられますが、この吉備と言う字から、我地方「吉備」と深く係りのある天皇ではないかと思われるのですが、いかなる関係があるは何の説明もなく分かりません。
 これについて、宣長は、「孝霊天皇の御子「イサレリヒコ」と混同したのでは」と説明してありますがどうでしょうか??????わたしは「イサセリヒコ」とは全くの別人で、吉備と何かこの天皇も大いに係わりがあったのではないかと思っているのです。その証拠はありませんが・・・・この時代もまだ吉備が光っていた時代ですから、なんとなくそんな気がしてならにですが。

 日本書紀には、此の「大吉備諸進命」はありません、蛇足ですが。

孝昭天皇の記では

2019-10-28 08:21:53 | 日記
 第4代天皇は古事記では

         “御真津日子訶恵志泥命<ミマツヒコカエシネノミコト>”

 です。この天皇の記録も、皇子の名前など前の天皇の記事と全く同じで、為された政務については何の記録もありません。更に、その御年ですが、

         “玖拾参歳<ココノソデマリミツ>”

 で、93歳となっておりますが、日本書紀によると114歳で死去されたと計算できます。このように此の天皇の時代についても、何がどう動いたと云う史実はよく分からず、霞の中の存在としか言いようがありません。故に、「欠史八代」の中の「一代」になること確かです。御陵も「掖上博多山」にあり」と書かれております。平地では有りません。

懿徳天皇の「欠史八代」の証は・・・・

2019-10-26 11:38:13 | 日記
 綏靖より開化までの天皇はこの世に存在しない架空の天皇だとされ、「欠史八代」と言われていますが、その証拠となる歴史を探っています。

 四代懿徳天皇の場合もそうです。皇后とその皇子など本当に簡単にその歴史が書かれております。その最後の部分を御読みください。

 “天皇御年肆拾伍歳御陵在畝火山之真名子谷上也”

 「45歳で亡くなり、畝傍山の真名子谷の上に御陵<ミハカ>がある」
 と。
 なお、「御年」についてこの「45」と言う数字が、誠に怪しげであるのです。日本書紀には、そのお年が何歳かとは出ていません。しかし
 「安寧天皇十一年に皇太子になり、その時の年齢が十六歳」だ。」
 と書かれております。これを安寧天皇の歴史から計算すると、少々複雑になりますが、どうしてもその年齢は七十七歳になります。興味あるお方は日本書紀をご覧ください。

 ここら辺りの記述からも、どうしても此の天皇も「欠史」の一人にならざるを得ないのです。