私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

怒る道臣命の持つ『横刀』は・・・・

2019-06-30 09:35:53 | 日記
 「伊賀」「意禮」の4字からも分かるようにジンムの使者「道臣命」や「大久米命」は怒髪天を突くほど怒りを顕わにして、

 「汝が天神御子<アマツミコ>を“欺陽仕奉而<ツカエマツラント イツワッテ>”作った大殿に、まず、己が入れ!!!」

 と“罵詈云<ノリテ イヒケラク>”、厳しく申し渡します。その時のジンムの使者の二人の様相を古事記には

  “握横刀之手上<ツルギノ タカミトリシバリ>”

 「剣の柄を堅く握りしめて」今にも手にした剣を抜かんとばかりにです。

 さて、この「横刀」ですが、「大日本開闢由来記」には次の様に描かれています。

              

この事件の頃は今から約2700年も昔のことですから。考古学的に考えると『弥生時代』の頃ですね。すると、当時、「鉄剣」など、まだ、日本にはない時代なのですがが、神話の世界ではあったのでしょうね。しかも、それは「横刀」ですから、絵のように腰にぶら下げていたのでしょう。

 なお、このお話の時間的な差異を考えると、実際は千年程度の誤差があるの確かですが???まあ、それはあまり詮索しない方がいいのでしょうね・・・

“意禮”です・・・・

2019-06-29 06:44:54 | 日記
 “伊賀”に引き続いて

         “意禮”

 ですが、<オレ>と読みます。
 これは、先に、あの「オオクニ」が根の国の「スサノヲ」の娘「須世理毘売」と出雲に逃げ帰る時、「黄泉比良坂」まで追いかけてきて、それ以上追いかけることが出来ないので、スサノヲが悔しそうに、オホクニに呼びかけた時にも、この“オレ”が使われています。

       “意禮為大国主神<オレ オホクニヌシノカミ トナリ”

 人を賤しめ詈<ノノシ>るときにいう言葉で、前の“伊賀”の意も、この「意禮」と似たような言葉ではないかと宣長先生の説明です。『己らは』と人を蔑んで脅すように言う時に使うのではないでしょうか。水戸黄門達等の時代劇などで、助さん達が極悪人を前に

   「てめえらみてえな あくどうもんは・・・」

 というセリフをよく聞きますが、この「てめえらみてえな」という江戸時代の言葉が、古事記の時代の「伊賀」であり「意禮」であるのだと思いますが?????

またまたへんてこりんな言葉が・・・・・

2019-06-27 10:05:49 | 日記
 ジンムの家臣の「道臣命<ミチノオミノミコト>」と「大久米命<オオクネノミコト>」が兄宇迦斯<エウカシ>を呼び出し“罵詈<ノリ>て”言います。

      “伊賀所作仕奉於大殿内者”

 と。
 この「伊賀」をどう読めばいいのでしょうか?それとその意味です。なんでここにジンムと聊かも関係のない地名「伊賀」が・・・・・想像もつきません。そこでまたまた、宣長先生です。先生は

   “伊賀、此は他に例もなく、いと心得がたきなる言なるを・・・”

 と書いて、
 「自分流に解釈すれば、伊賀<イガ>は阿賀<アガ>と似ており、我で<オノレ>に通じ  るではないだろうか」
 と、誠に、苦しい解釈を付けられております。だから、この意味は

 「天神御子ジンムに仕え奉ろうと考えて、オノレで作った大殿の内に・・・」

 というぐらいになるのでしょうか。そして、この読み方を

     <イガツクリ ツカヘマツレル オホトノヌチニハ>

 としております。
 
 このような読み方をしておれば時間がいくらあっても終りがないくらいですが、これも「古事記」を読む楽しさでしょうかね???まあゆっくりと!!!ゆっくりとです!!!
 

 

弟宇迦斯<オトウガシ>が・・・・

2019-06-26 08:16:20 | 日記
 宇陀には「兄宇迦斯」と「弟宇迦斯」二人の兄弟がいたのですが、この二人は性格が違っていいて、天神御子「ジンム」に対して、兄の方は強硬に排撃しようとしていたのですが、弟の方は、反対に、従順の意(こころ)を持ってこれに対応しようと思っていたのです。それですから、事前に兄がジンムの殺害計画を知って、すぐさまに、ジンムの所に駆けつけ、 兄は

        “作大殿。其内張押機。将待取”

   <オホトノヲツクリ ソノウチニ オシヲハリテ マチトラムトス>

 「あなたを殺そうと、密かに、仕掛けを廻らせています。」と。

       “故参向顕白<カレマイムカヘテ アラハシマヲマスト モウシキ>”
 
 その計画の一部始終を詳しく伝えます。その兄宇迦斯の計画を知ったジンムはすぐに
  
        「道臣命」と「大久米命」に
 
 その征伐を命じます。早速、この二人は兄宇迦斯を呼びつけて 
        “罵詈云<ノリテイヒケラク>”
 と古事記には書いてあります。「罵詈」は「ひどく叱りつけて言う」事を意味しています。<バリ>という漢音ではなく、敢て、これを<ノリテ>と訓読みにしています。これも古事記の作者の意図だと思いますが?????

 この事を考えてみると、ジンムが「宇陀」に着いた時には、この兄弟は仲違いをして、二つの勢力がお互いに対立していたのでしょうか、一枚岩で無かったのがジンムには幸いしたのでしょう。
 このようにジンムの東征には、何時も、数々の僥倖が付き纏っていたのだと言わざるを得ませんね。天神御子<アマツカミノミコ>だったということを意図的に強調したのかもしれませんね。

 

大殿を作ります。

2019-06-25 04:59:55 | 日記
 ジンムを攻撃するための大勢の軍勢が集めることができなかった「兄宇迦斯<エウカシ>」は
          “欺陽仕奉而<ツカエマツラント イツハリテ>”
 策略を施して

          “大殿<オホトノ>”

 を作り、その中に人が入ると、たちまちに覆り陥り入りて人を圧殺する

          “押機<オシ>”

を仕掛けて、ジンムを殺害しようと計画したのです。「落とし穴」の様な物です。時代劇ではよく天井が落ちて人を圧殺するような場面を見ますが、この場合は床が落ちて、その中に人を押し込めて殺害する仕掛けです。

 「私の町吉備津」にも、平安の昔にですが、大殿に作った押機では有りませんが、それよりももっとひどい仕打ちですが、道に大きな落とし穴を作り、更に、ご丁寧にもその穴の底に竹槍をびっしりと詰めこんで、人を落として殺したという話が伝わっております。