私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

さて、今の吉備津の美しさと云えば

2016-03-31 15:30:50 | 日記

 またまた、横道にそれます。稚媛のことはほっといて、今日の吉備津の美しさと云えば、やはり「桜」です。
 染井吉野の花びらは、昨日今日の朝夕の寒さのためでしょうか、未だ、5分咲きにも至ってはいません。でも、神社の池に咲く「しだれ桜」は、例年と全く同じに、今を、「美しさは私だけだぞ」とでも言いたげに謳歌しており、誰がどう言おうと、満開なのです。吉備の中山から吹き下ろす柔らかな春風が引き起こす水面のさざ波の中には、桜の花びらは一ひらも見えません。そこはかとなく吹き渡る春風などどこ吹くかと、花びらは枝に春の風を笑うが如くに頑丈にくっついております。その代わりに、満開のしだれ桜が水面で絞り染めの花びらに変化して、空気と水との淡いえもいわれぬ現実とうつつとの対象を、ピカソの絵筆の如くに描き出しております。何処にもない吉備津だけにある自然の春がくれた贈り物です。明日か明後日が最高です。その最高の花見時、4月2日(土)に吉備津栄西茶会を、栄西生誕地で開きます。花見を兼ねて参加してみませんか。香を焚いて、お茶を飲むだけの会ですが、どうぞ。

     大勢のご参加を願っております!!!!

 その写真を。
         


「茂」と「綽」な女性???わかるかなあ!!!!

2016-03-30 09:43:17 | 日記

 昨日書いたように吉備下道臣多狭の妻である「稚媛」について、「茂」「綽」と、その容姿を書紀には書いております。一体どのような女性であったのでしょうか???

 まず、「茂」には<コマヤカ>とルビが符してあります。辞書には、「豊か」・「優れている」「立派で美しい」という意味があると書かれております。
 また、「綽」は<サワヤカ>と読ましており、「しとやか」「しなやか」「たおやか」等の意味があるのです。

 これからだと、一体、どのような美しい女性であろうか、はっきりとした姿が眼には浮かんできません。「茂」は、豊かで美しいのですからすから、蜾嬴(すがる)乙女ならぬ、豊満な肉体美の女性であろうということは想像できます。また、「綽」ですから、なよなよとしたしなやかな女性のイメージがします。それを踏まえて、さらに、「諸」ですから、諸々総てに渡って女性としての完全な美しい姿か備わっているというのです。

 これが、当時の天下一の美女だというのです。大変な自信でしょう。その自信は、次なる言葉を似て、更に、彼女の美しさを言い表わしているのです。


「諸好備矣の上道臣田狭の妻「稚媛<ワカビメ>」

2016-03-29 09:27:46 | 日記

 朝廷での休憩時の話です。田狭は同僚の豪族たちに語りかけます。

 「私の妻ほどの美人(麗人<カオヨキヒト>は見たことないよ。」
 「茂<コマヤカ>で、しかも、綽<サワヤカ>な女性ですよ。」 

 ここで話が終わっておれば、その後から起る田狭の悲劇はなかったのですが、興に乗ったのでしょうか、それとも周りにいた人々からのわんやの喝采があったのでしょうか、その美しさのありように付いて、つい うかうかと、おしゃべりを続けます。その話というのが

 「諸好備矣<モロガオソナワレリ>」と、さも自慢そうに語ります。「美人の要素が総て彼女には備わっているのですよ。何処を見ても非の打ちどころがないほどの美人ですよ」
 と。
 よくもそんなにまで自分の妻の美しいことに付いて云わなくてもいいのではと思うのですが。そこら辺りが「日本書紀」を読む面白さのひとつでもあるのです。だれも、それに付いてくどくどと知ったかぶりして説明している人もいないので、敢て、私がここに取り上げたのです。

 「矣」という字を使って、次から次へと田狭は妻の美しさをみんなに話して聞かせております。「茂矣綽矣」につづいて、これで3回目の「矣」です。後3回も、これでもかこれでもかと、妻の美しさに付いて、「矣」という字を使い「田狭」の語りを書き綴っております。

 田狭の言う「茂・綽・諸好備」な女性とは一体どのような麗人だったのでしょうかね


吉備の上道臣「田狭<タサ>大いに自慢する

2016-03-28 17:51:08 | 日記

 雄略天皇の七年のことです。宮中でのことです。と言いますから、当時は、天皇の政治体制は絶対的な中央集権ではなく、吉備など夫々の地方の豪族たちと天皇の連立政権だったのです。その為に吉備の上道臣「田狭」も朝廷に出て行って大和政権の一翼を担っていたのです。
 そんな政治の話が一段落したのでしょうか、休憩の時になります。集まった人々が夫々に自分の長所などを自由に話し合う非公式な雑談の時です。天皇もその場にはいません。豪族たちの放談です。その中で、田狭はさも得意そうに、自分の妻の事に付いて人々に、それも大きな声で話します。

 「今、天下の一番の美人は(麗人<カオヨキヒト>と書いてあります)私の妻だ」

 と。そして、その理由についても大いに自慢しております。「茂矣<コマヤカニ>綽矣<サワヤカニシテ>」と自慢しております。この田狭の自慢話が、その後、とんでもない方向に進んでいくということも知らないで、そこにいる豪族たちに大声で話して聞かせます。

 さて此の続きはまた明日にでも。


古代吉備の三大美女

2016-03-24 12:24:29 | 日記

 古代吉備は美人の国として、また、大いに褒め讃えられておりました。葉田の葦守出身の応神天皇の恋人「兄媛」がいます。また、仁徳天皇の后の磐媛の嫉妬に悩まされた「黒日売」も、当時を代表する美女だったのです。しかし、これらの美女は、何れも、中国に見られるような傾国の美女では無かったのです。おしとやかで、しかも、つつましやかな美女だったのです。そのいずれも、天皇のお側から離れて吉備の国に立ち返って暮らしております。日本には、どうして中国で見られるような政治を蔑ろにしてまで、一人の女性に夢中になり、総てをなげうって尽し、国を滅びしてしまうような男性がでなかったのでしょうかね。そんな美女がいなかったわけではありませんでしょうが。
 天皇ではなかったが、「光源氏」のあの紫の上との恋も政治を忘れるほどの恋ではなかったのです。しかし、雨夜の品定めではないのですが、洋の東西を問わず、美女の話は、度々、男性世界では話題としては取り上げられるのは事実です。その女性の噂話が日本で初めて歴史書の中に書きこまれたのが、「日本書紀」です。
 ある時です。時はあの雄略天皇の御代です。それも朝廷内で、高級官僚たちの間でなされていたのです。その話題の中心人物が

    「吉備上道臣田狭<キビノ カムツミチノオミ タサ」

 です。昨日取り上げた人は吉備の国の「下道臣前津屋」ですが、今度は、同じ吉備でも「上道臣田狭」です。そこら辺りにこの書紀を表した筆者の意図が隠されているのです。またこれも少々長くなるとは思いますが書いていきますのでお読みください。