私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

もうお酒の話はこれくらいにしで・・・・

2018-02-28 09:18:53 | 日記

 と、思ったのですが「古事記」には、この後にも、応神天皇のお酒好きが伺える歴史が書いてあります。序でに、よくご存知とは思いますが書いてみます。
 仁番が日本に酒造りの製法を伝えたのですが、その後、天皇は彼が醸造した酒が気に入り、余計に酒好きが嵩じたのです。それを

        ”於是天皇宇羅宜是所献之大御酒而”

 と書いてあります。<ココニ スメラミコト コノタテマツレル オホミキニ ウラゲテ>です。この「宇羅宜<ウラゲ>」を宣長は
   
              「すずろに心おもしろく、浮き立つを云う」

 と説明しております。一杯飲んで、むやみに、何のこれといった理由もないのに、すずろにです、浮き浮きして大変愉快な気分におなりになったのです。
 なお、この「宇羅<ウラ>」ですが、もともとは「心」「内心」のような名詞として使われていたのですが、「うらかなし」「うらさびし」のように形容詞の接頭詞としても用いられるようになってきます。蛇足ですが????


お酒からとんでもない方向へ??

2018-02-26 09:12:52 | 日記

      

  お酒の話からから、とんでもない方向に進んできましたが、又、「和事初」本に書かれているお酒のお話に戻します。
 この本によると、「誉田皇子」の、まだ幼子の時代のお酒についてのエピソードを書き、それに続いて成長して「応神天皇」になってからの酒に係った事ついても書いてあります。余程、この天皇が酒好きであっただろうと言う事が想像されました。

 ”応神天皇の御時、百済国より酒を醸するを知る人、名は仁番<ニホ>参り渡り来り大御酒<オホミキ>をかもして天皇にた献る。・・・・是より酒の製法精しくなりたるなるべし。今は世界の中、日本の酒に及はなしとかや。”

 と。これにより、オホクニの世から、時代を大分経て、正式な「日本酒」の製法が朝鮮から渡ってきたことがこれからも分かります。5世紀の初め頃です。


驚くべき長寿の人がごろごろと???

2018-02-23 09:38:22 | 日記

 3人の我が国の長寿の人を紹介したのですが、記紀には、此の他にも、まだまだ、驚くような長寿の人達が出てきます。日本人だけかと思うとそうではないらしいのです。あの漢字を日本に伝えたと言われている「王仁」や「阿知使主」も150歳位までは生きていたと書かれておりますし、我が「吉備津彦命」は、吉備津神社傳」によると垂仁天皇の時271歳で亡くなったとされております。また昨日取り上げた吉備武彦(日本武尊の蝦夷征伐の副将)も300近い年齢で遠征に参加しております。

 なお、歴代の天皇を見ますと、初代の「神武天皇」は127歳、「孝霊天皇」は128歳です、一番長寿の天皇は「垂仁天皇」の140歳が最高齢者です。

 


景行天皇の皇后は300歳になってお子様が???

2018-02-22 17:50:07 | 日記

古事記には「景行天皇」の皇后について

     ”天皇が吉備の臣の祖先である若建吉備津日子の娘、名は針間伊那毘能大郎女<ハリマノイナビオオイラツメ>
      を妻として、生ませた子・・・・”

 とあります。吉備の国から皇后がと誇らしげになり、そのまま読み続けて行くと何も問題はないのですが、此処で少々引っかかることが生まれてくるのです。ということはですが・・・・・・。ここに見える
             “若建吉備津日子”
 ですが。この人について、古事記には、孝霊天皇の時に吉備の国に言向むき和はす為に派遣した吉備津彦の弟です。その人の娘が景行天皇の妻になっているのです。その何処がおかしいのかと思われるかもしれませんが、

      ⑦孝霊天皇-⑧孝元天皇-⑨開化天皇―⑩崇神天皇-⑪垂仁天皇

 と続いて、やっと「⑫景行天皇」の名前がでてきます。私の持っている「日本王代一覧」 によると孝元から垂仁までの在位期間だけを足しても「57+60+68+99=284」にもなります。、すると、このイナビノオオイラツメが景行天皇に輿入れした時の年齢はというと、とっくに300歳を越している計算になります、そして、更に驚くなかれです大碓命や小碓命などの5人の皇子皇女をお生みになっているのですよ。そんなことってあるのでしょうか。

 宣長は「深く疑うことなかれ」と言っていますが疑わずにはいられませんが              


もう一人の女性の長寿者が・・・

2018-02-21 10:11:21 | 日記

 倭迹迹日百襲姫は180歳ぐらいの長寿之女性だったのですが、それよりも、もっと長寿だったはずの女性が吉備にはいます。その人の名は

                “播磨稲目大郎女<ハリマノ イナメノ オオイラツメ>”

です。この女性は、古事記には、吉備津彦命が吉備の国を“言向け和したまう”時に一緒に来た弟君{若日子建吉備津彦命)の娘なのです。その弟君にはあの「吉備武彦」がいます。この女性も現代では考えられような長生きをしており、景行天皇の皇后になっております。

               また明日に