私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

ここで、また、ちょっと・・・・・・

2016-09-30 07:34:05 | 日記

 象潟を書いたついでです。あの松島を芭蕉がどのように綴ったか、比べてみたくなりますね。ここで、また、ちょっと書いてみますのでお読みいただければと思います。(自筆本も写真で 少々長いので2回ぐらいに分けて記してみます。

  
                        抑松嶋は扶桑第一の好風にして をよそ洞庭西湖を恥す
                        東南より海を入て江の中三里浙
                        江の潮(ウシホ)をたヽふ嶋々の数を尽して
                        欹(ソハタツ)ものは天を指ふすものは波に圃(ハラ) 
                        匐(ハウ)あるは二重にかさなり三重に
                        畳(タタミ)て左りにわかれ右につらなる屓ル
                        あり抱(イダケ)ルあり児孫愛すかことし                        

                 

 なお、「屓ル」は「負ル」で<オエルアリ>と読むのだそうです。ここでは、あれでもないこれでもないと文章をおおいに推敲したのではと思われますがどうでしょうか???


私の一番好きな「奥の細道」は・・・

2016-09-29 06:09:26 | 日記

 「この寺の方丈に坐して簾を捲ば風景一眼の中に尽て・・・」と書かれたこの部分は、「奥の細道」の中で、私の特に好きな所です。芭蕉は、この部分を書く時、あの「香炉峰の雪、いかならむ・・・・、御簾を高く揚げたれば」の古事が、きっと、頭を横切ったのではないかと想像されるのですが、それを遥かに超えた雄大でかつ細微に、そこから見える風景を書き表わしております。清少納言は、ただ「香炉峰」だけを眺めるために御簾を揚げたのですが、芭蕉のそれは、坐した場所から東西南北の総ての方向が眺めることができ所だったのです。そこから見える風景を贅を尽した文章で書き表しております。そなん場所は「方丈」でなくてはならないのです。壁などの視界をさえぎる物が何もない東も西も総てが見通せる処に坐して、周りの風景に圧倒されそうになりながら、技巧をこらして何回も推敲に推敲を重ねた末に書き上げたのではなく、そこから見たままを、一回で、すらすらと、書き上げたのではないかと、私は考えております????

                            

  なお、この中で芭蕉は “その陰うつりて” と書いていますが、蓑笠庵は

                              “陰ハ影の字の書誤りなるべし”

 としています。この書誤りからも芭蕉の一気呵成が分かるような気がしますが????。それを写真で(自筆本)

                    

 読みやすいように書いておきますので読んでみてください。

             “・・・簾を捲けば風景一眼の中に尽して南に鳥海天をさヽへ其陰うつりて江に有西ハむやむやの関路をかきり東に堤を築て秋田に

              かよふ道遥ニ海北にかまへて波打入るヽ処を汐こしという・・・・・”

 と、何処に句読点を打てばよいかも考える暇も与えないかのように、その景色を見事にまで捕えて書き綴っております。寺の方丈に坐して、そこから見まわした東西南北を、時を同じゅうしたその瞬間瞬間の折々を、芭蕉の見事な捉え方によって、即興的に言葉にしたのがこの文章ではないでしょうか。その時々の心意気が伝わってくるようではありませんか???どうでしょうか。松島と比べて読んで見てください。


“方丈に坐して簾を巻く・・・”

2016-09-28 07:10:02 | 日記

 この2.3日の私のブログは「なんだ!!!お前の自慢の本の紹介のための自画自賛ブログじゃあないか」と思われたのではないでしょうか。

 さて、今日もその一冊を。と云うのも、蓑笠庵氏は、次に、象潟の処に書いてある

                “此寺の方丈に坐して簾を捲ば”

 を説明しております。
 まず、「方丈」について、「寺の勝手向きの間」を云う。それは、唐の時代に「王政策」と云う人が西域の維摩居士を訪ねたところ、彼のいた石室の縦横が「十芴」(一丈)であったために、そこを「方丈」と云ったのです。それが、後になって。お寺の勝手の間を方丈と云うようになったと説明してあります。そして、次の「簾を捲ば」について

            “王勃カ勝王閣ノ詩ニ 「朱簾暮捲西山雨」ト云ル形容ナリ”

 と書かれております。そこで、またも、此の{王勃「勝王閣」の詩}を私の持っている本(明治9年;「校本古文後集」)で御紹介します。

              

  

                  


柳田国男の民俗学のルーツか

2016-09-27 06:34:15 | 日記

 柳田の日本民俗学のルーツではないかと云う話をもう一つ。

 梨一は、この神功皇后のお話の中で、「干満珠寺」のいわれの他に、もう一つ里人から聞いた話を御丁寧に書きいれています。それは

       「この皇后の御陵を造る前に、既に、象潟にある汐越川に烏帽子岩と云う石があって、芭蕉がここを訪れた時に
                “むかし誰 岩に烏帽子をきせぬらん かたかたとしてよい男なり”
       と、ざれ歌があった。その後 その石を蚶満寺の庭に移して、それを親鸞聖人の「腰掛石」と名付け、今もこの寺にちゃんとある」

 と。 このお話からも分かるように、神功皇后の御陵がこの地にあったと言うのも、里人たちが作り上げた
                        “或ハ此類ノ虚妄ナルベシ”
 と、わざわざ、梨一は書き加えております。

 でも、このような「里に残されている話を書き添えた」と言うことが、後のあの「遠野物語」などの民話が世に出るきっかけを作ったのではないでしょうか。

 なお、これは、又、自慢話になりますが、私はこの「遠野物語」の初版本を持っております。(350冊の内の1冊)、何かの御参考にでもなればと・・・・・

         


神功皇后のお墓

2016-09-26 08:49:24 | 日記

奥の細道にある“干満珠寺”についても詳しい説明が有ります。

   “干満寺ト云或ハ蚶満寺トモ書ク禅宗ニテ千体仏を安置ス。山門ナド有テ、荘厳巍巍タリ”

と(「巍巍」とは、高くて大きいことです)。この寺の名前の由来について、梨一は、ここの里人の話にあるとして次のような話も書きとめております。

  昔、神功皇后の三韓征伐の時、干珠と満珠も2つの珠を使ったと言う伝えがあり、その二つの珠を此の島に埋めたので、最初は「干満珠寺」と呼んでいたのが、後になって珠が省かれ「干満寺」になったのだと。でも、元々は「蚶」の形をした「潟」から「蚶潟」それが「象潟」に変ったのだと説明しております。

 このような「象潟」に関するお話を読むと、あの柳田国男の「民俗学」のルーツは、この蓑笠庵梨一にあるのではないか???と云う気がしないでもありません。

 なお、これもどうでもいいような話ですが、写真を見てください。

                       

 この2枚の写真ですが、前のは芭蕉の奥の細道の自筆本を、次のは梨一の菅菰抄を写したものです。芭蕉は、写真でもお分かり頂けるように、ご丁寧に張り紙をして「后宮」と訂正しています。でも、梨一は右にあるように、堂々と、「皇后」と書いています。芭蕉の方に書き過ちがある事を、暗に、書き指しているかのようにですが。どうお思いでしょうか????