私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「崩」という字はどのように読めば?????

2019-05-31 09:02:50 | 日記
 ジンムの兄「五瀬命」はナガスネヒコの矢に当たって

         “為男建而崩”

 しますが、この「崩」はどう読めばいのでしょうか。「オタケビテ ミマカリマシキ」ではないかとも思うのですが、念のためにと思って、また、宣長先生を見ました。すると、そこには

       “加牟阿賀理痲志奴”

 という字が並んでありました。<カムアガリマシヌ>とです。これに付いて彼は、更に、
<カムアガリ>とは「神上」で、普通は、人が死んだ場合は、総て
          「底津根ノ国」
 に行くのですが、天皇など貴い人の場合は「天に上リ坐ス」という云うのが古代の習わしであったと説明があります。
 
 「なるほど」と合点しました。本を読むという事は、今更ではないのですが面白いですね。
  なお、日本書紀には「薨」という字が使われており、<カムサリタマヒキ>とあります。
   蛇足ですが・・・・・・

“男建”。これをどう読むのでしょうか???

2019-05-29 09:59:33 | 日記
 古事記を読んでいると、「今更!!!!!」と、驚くほどではないのですが、しばしば「これは?????」という、大変面白いと言っては失礼かもしれませんが、奇妙な字に出合うことがあります。

         “男建”

 もそうです。此の言葉は、先にアマテラスとスサノヲが争う時にも使われていましたが
 「ものすごく荒らぶる」ことです。ここでは「五瀬命<イツセノミコト>は御手に敵「那賀須泥毘古<ナガスネヒコ>の矢を受けて「男之水門」で

         “負賤奴之手乎死。為男建而崩”

 「賤しい奴の矢を手に受けて死ななければならない。」と、大変残念がられて、崩御されます。「男建」を「雄たけびを上げて」と解釈されておる訳者もいますが、それは誤りです。
 更に、古事記では「男之水門」という名の由来は、ミコトがこの水門で「男建<オタケビ>」して亡くなられたということが元になって付けられたのだと説明がしてあります 

“吾者為日神之御子・・・”

2019-05-28 09:53:15 | 日記
 五瀬命は手に敵の射た矢に当たり重傷を負います。その原因を命は

 「私は日神の御子です、それなのに日に向かって戦いをした。その報いがこのような痛手を被らした原因となって現れたのだ。これからは日を背に受けて戦いをする必要がある。これからは、日を背に受けて戦わねばならない。」

 と言われて、南の方に全軍を迂回して太陽を背にして戦うよう作戦を変更します。そして紀の国

             “男之水門<オノミナト>”

 に到着されます。

五瀬命<イツセノミコト>の死

2019-05-27 10:23:44 | 日記
 ジンム達の一行の上陸をよしとしないその地の主「那賀須泥毘古<ナガスネヒコ>」は戦いを挑みます。「楯」を取って戦ったとありますから、両軍の主戦法は弓矢による戦いだったのです。

  なお、話が、又もや飛びますが、その時から約900年後、「我が町吉備津」に温羅退治のために大和から派遣された吉備津彦命の戦いにも弓矢が使われます。その遺跡と言い伝えられている

        “矢置き石・楯筑遺跡・矢喰宮”

 が、現在、「日本遺産」として登録されて、多くの観光客でにぎわっておりますが、鉄剣が発使われる五世紀の末までは、日本での戦の主流は弓矢であるということを証明しております。

 その戦いで「那賀須泥毘古」が射た石の鏃が付いた矢が戦いに参加していた、多分、記録にはありませんが、その戦いの先頭に立って指揮していたのでしょう一行の連隊長だったとおもわれるジンムの兄「五瀬命」が負傷します。それを

     “五瀬命於御手負登美毘古之痛矢串”
     <イツセノミコト ミテニ トミビコガイタ イタヤグシヲ オハシキ>

 と書いております。「痛矢串<イタヤグシ>」の「痛」とは「厳しい・激しい」という意味です。飛んできた矢がその御手に突き刺さったのです。