私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

 「風致西国第一の社頭也」

2020-07-30 06:51:03 | 日記
 岡西惟中は吉備津神社を

 "名にしおふきびの中山、松の木ずゑ緑たれ、外清浄のあらし高く、森々たる宮居心言葉も及ばれぬ。風致第一の社頭也”
  
 と記しています。
 「昔からその名を轟かしている吉備の中山は松の緑で一年中照り映え、そのお山から流れ下る清浄な風が社全体を一面に覆い尽くして、神のいます社としての見事さは筆舌を尽くせないほど神々しく、実に、見事なる第一級の社殿である」
 と大変な褒め言葉が並べられています。

   その "森々たる宮居心”を写真で

             
        
             

             

             

             

「白水郎子紀行」

2020-07-29 07:18:28 | 日記
 「白水郎子紀行」???

 なんと読むのでしょうかね。調べてみると  
       <アマノコノシルベ>
 と読むのだそうです。ちょっとした変人のようなお人というか「我こそが!!!」という鼻柱の随分と高いお人だとも言い伝えられておるのだそうです???

 この人の江戸の初期の「旅日記」です。

 吉備津神社に詣でています。
 「この社は人皇第七代皇霊天皇第三皇子、吉備津彦の命・・・十二代の帝仁徳の草創にして、五社の神を殿建給ふ。本宮は孝霊天皇。内宮は開化天皇、新宮は垂神天皇、吉備津媛の岩山の神社、本殿は吉備津彦命・・・・」
 と。

 この五社のうち内宮・新宮・岩山の神社に祀られている神の名前が今一般に言い伝えられている神の名前とは異なっています。ちなみに、今は普通「内宮」は吉備津彦の妃"百田弓矢比売命、「新宮」は吉備武彦命、「岩山神社」は建日方別をお祀りしているといわれているのですが??
 どこからこの違いが出てきたのでしょうかね???

 多分、岡西惟中は、その時の吉備津神社の社司に案内されて吉備津神社を見学していますので、その人から聞いたのでしょうからその時代はそのように信じられていたのでしょうかね??_
 これも吉備津神社の不思議なものの一つです。
 
 あまり面白くも何でもないことですが、これも吉備津神社に伝わる昔物語の一つですので書いておきました。よかったら読んでみてくださいね。

吉備津神社記の「参詣」にある岡西惟中という人は・・・

2020-07-28 10:22:49 | 日記
 今までにあまり聞いたことのない名前が「吉備津神社記」には次から次へと出てきます。その一人が

            ”岡西惟中”

 というお人です。ネットによると江戸前期に活躍した鳥取出身の俳人で一時岡山にも住まいしていたとあります。井原西鶴と同時代の人で「博学多識」な人だと紹介しています。その彼の著書、

            ”白水郎子紀行<アマノコノスサビ>”

には次のよう序があります。

  ”天和壬戌(1682年)之夏四月薄言出門発足、汗漫游伊予讃岐備前備中安芸・・・・・・随時展詩或揆首海湄月繞野店荒村”

 と、その中で
 "・・・舟のたよりありて、備中の宮内にわたる。・・・
 と書いています。
 
     

吉備津神社にはもう一つの音があります。

2020-07-27 06:19:01 | 日記
 この「九州道の記」は秀吉の朝鮮との戦争(文禄の役)に駆り出され九州へ赴むいた3ケ月も掛けたゆっくりとした長嘯子の旅日記です。何と吉備津には驚くべきことですが2日間も滞在しております。その2日目です。

 "・・・その夜は神主のいへにとまりぬ。翌日は雨そぼふりければ、ゆきもやらず・・・・”

 雨が降ったのでどこにも行けず、吉備津神社内を見学しておりす。その中の、特に、「火たきや」の見学について、

 ”・・・火たきやに、釜ふたつならびすゑおきたる。其かまひとつ神供をととのふる毎におびただしくなりとよむよしをききて、のぞみはべりける。・・・”

 現在は「御竈殿」と呼ばれていますが、長嘯子は「火たきや」と書いていますから江戸の初め頃にはそのように呼ばれたのでしょう。当然、神主の案内があったはずですから聞き間違いはないはずです。そして、その「火たきや」に鳴り響く釜の音が

        ”まことに、いかづちなどのようにしばしとどろきてきこえけり。”

 その鳴り響く音に、
        ”これぞ此神秘となむいひつたへし。”
 と、その音に大変驚いております。

 前日の胸底をえぐられるようなあるかないかの静寂なる瀬音と今の雷のような神秘的な鳴る音の二の響きに心を揺さぶられるようして吉備津神社を離れます。
 その中に何か「「私」という小さな人としての存在を意識的に深く感じ、そこに人としての生き方というか己の進むべき来し方の道を、神という不思議な存在を仲立ちとして、その根源は違いはあるものの、この大小の2つの音韻を比べながら人とは何かと暗中模索していたのではと???????????????

   この時の木下勝俊の心の内には、あたかも西行が歌の中にその答えを見出した時と全く同じような心情が、突如として、この二つの音の中から沸き立ように表れたのではないかと思われます。・・・

「きれいな音であればあるほど・・・」

2020-07-26 07:08:57 | 日記
 昨日の朝刊コラムに吉田秀和のことばがありました。

 "きれいな音であればあるほど、それが何か悲しくひびくのはどうしたことだろうか。”

 と。この言葉に対して哲学者「鷲田聖一」は

 "一度かぎりで消えゆく音。それは<私>という存在の寄る辺なさと寂寥に、どこか「安らぎ」をすら伴いつつ人を侵すのか。”

と書いています。
 この新聞記事を、昨日、「木下長嘯子の九州旅の記」を書いた後で、偶然見つけます。
 この文章を見て、今書いている木下勝俊の「無常に不覚の涙ぞこぼれける。」は、彼がこの細谷の流れのあるかないかの音を聞いた時以来、形作られた彼の心ではないでしょうか。これ以後の彼の心奥深くに、物静かなるきれいな音であればあるほど、そこに何かしらない物侘しい寂寥なる心が形造られ、それが、今、己の目の前に突然現れた人によって故意に消されようとする照り輝くばかりの絢爛豪華な伏見の城の静かさを見て、そこに底知れない人と人とが戦う人間の愚かさが見えて、以後の己の生き様がはっきりと捕まえることが出来たのです。それが、突如「敵前逃亡」とよばれてもしかたないような刀をその場に投げ捨ててその場から忽然と姿を消え去ることになったのではないかと考えています。この音に対する考えは当時の武人には、徳川家康たちには、決して、理解しがたいものであったのですが・・・
  
 静かで綺麗な音は、本当に、人の心に何かうつろというか寂寥なるものを生む基になるものですね!!!それが又、あの利休の最期をも決した原因になったのではとも思われますが???  利休と長嘯子の生き方を対比して考察する人には、めたあに目にかかれないのですが。

           乞う!!!!ご批判を・・・