私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

雄略天皇の皇女「拷幡娘姫<タグハタイラツヒメノヒメミコ>

2015-10-29 18:27:05 | 日記

 雄略は政敵をすべて殺害することによって天皇の位に付きます。その妃の一人葛城の円大臣の娘「韓姫」が生んだ皇女に拷幡娘姫皇女<タグハタイラツメノミコ>がいますが、この皇女は伊勢大神の祠(斎宮)になられます。

 ある時、その原因は書かれてはいないのですが、阿閇臣国見と云う人が、この皇女が盧城部連武彦に侵されて妊娠したと讒言して、その噂を広めます。その噂を聞いた武彦の父「枳莒喩<キコユ>」は災いが自分に懸かると思って息子を殺してしまいます。また、その噂を聞いた雄略天皇は使いを遣わして、皇女に「本当か?」聞きます。皇女は「不識=知らない」と答え、そのまま、伊勢神宮の神宝「神鏡<アヤシキカガミ>」を取り出して,五十鈴河の上の誰も知らない所に埋めます。そして「経死<ワナギシンダリ>」

 これからも分かるように、当時の祭礼の道具、「銅鐸・銅剣・銅鏡」は、それを使った人とともに人知れず、人目の付かない山奥の何処かに埋められていたのです。
 この場合は、鏡を使っていたのは、雄略の皇女「拷幡<タグハタ>皇女」は伊勢神宮に仕える斎宮です。「拷幡<タグハタ>娘姫皇女」と、わざわざ「娘姫」を入れて彼女の神聖さが強調しております。伊勢神宮に仕える巫子です。その神聖さを疑われたのです。皇女がとっさに自分の死を考えたのでしょう、それしか身の潔白を証明する手段がなかったのです。そこで今まで使って神に仕えていた鏡と共に命を終えようと考えます。そして、神宮の辺を流れる誰にも知られない五十鈴川上流に鏡を埋め、そこで自分の首をくくって死んでしまいます。

 誠に悲劇で終わっております。天皇の「大悪」を一人で背負って、父、雄略の天皇という地位の安泰を願って自らの命を立ったのかもしれませんね。此の続きはまた明日にでも、

 


「雪」には、こんな読み方もあるのです

2015-10-28 08:24:50 | 日記

 前に「陽」を<イツワル>と読ましたと説明しましたが、書紀を読んでおりますと、どうこれは読めばいいのか、という字に、度々、出くわします。「経」、「雪」など、今、我々が、普通に、いつも使っている言葉ですが、それが、特別な意味のある言葉として使われており随分と頭を悩ます場面にしばしば出くわします。

 では、「雪」を、書紀では、どのように読ませているのでしょうか????

 “得雪子罪”

 とあり、これに<コノツミヲ キヨムルヲ エタリ>とルビをふっております。雪が<キヨムル>となっております。真っ白な雪は大変清よらかな感じがします、その感じから、訓読みにすると「きよむ」と読めます。「なるほどなあ」と、ここでも、感心することしきりです。
 なお、「経」ですが、<ワナギ>となっておりました。「わなぐ」とは、辞書によりますと「首をくくる」とあります。現在の「首つり自殺」です。それを古語では「わなぐ」と言い、漢語の「経死」から取って来たもだあそうです。

 古代吉備の3大美女の一人「稚媛」の事をと思ったのですが、まあ、いつもの例で脱線しましたが、明日も、この「経」と「雪」の字が使われている雄略天皇の物語を書いてみますのでお付き合い下さいね。


稚媛<ワカヒメ>

2015-10-27 08:29:23 | 日記

 書紀には、雄略天皇は、皇后と3人の妃を置きます。その一人が稚媛ですが、それがどうしてかは分からないのですが吉備の上道臣の妻であると記されております。更に,御産みになった磐城皇子・星川皇子もなまで書かれております。
 人の妻であった女性を妃にして、しかもお子様までなしているのです。それが歴史に書かれているのです。日本歴史上の特異例として。

 


古代吉備の天皇の心よ揺るがした美女達のお話しです。

2015-10-26 19:38:17 | 日記

 吉備の歴史的美女と云えば「兄媛」と「黒日売」が第1と第2に上がります。さて、次の三人目ですが、長らくお待たせしましやが、ようやく、お話することができる運びと相成りました。

 その第3の吉備の美女は、この雄略天皇と係ってきます。これまでにお話したように雄略天皇は、強くその皇位を厚く望まれ、多くの関係する人達が、その犠牲になったのですが、御馬皇子を最後に、ようやく、雄略天皇の思惑どうりに天皇の地位につくことができたのです。
 早速、皇后を決め、更に、三人の妃も決められます。この三人の妃の内の一人に、

 “吉備上道臣之妻稚媛"

 がいます。
 この女性は吉備窪屋臣之娘”です。窪屋とは、現在の山手地方から加茂地方にかけて、当時の備中の中心地を支配していた豪族の娘だったのです。
 その人が480年代の日本を代表する美女だったのです。黒日売の流れをくむ人に違いないと思います。
 その「稚媛」が、縁あって、吉備上道臣田狭の妻になります。それが、どうしてか、雄略天皇の妃になられるのです。少々長くはなりますがその辺りのお話をしてみたいと思います。


「日本王代一覧」にみる雄略は

2015-10-25 10:07:01 | 日記

林羅山の息子である林鵞峯(春斉)により編纂された「日本王代一覧」(慶安年間)という本によると、この雄略天皇に付いて次のように記されております。

 「天皇生ツキアラクシテ人ヲ殺スコトヲ好ム。罪ナクシテ死スル者多シ。人皆議リテ大悪天皇ト申ス。」

 また、水戸光圀の著書「大日本史」の中では

 「天皇、初め心を以て師となし、好みて軽々しく人を殺し、史部身狭村主青<フヒトベムサノスグリアオ>等を嬖幸<ヘイコウ>す。天下謗りて、大悪天皇と曰へり。」

 とあります。前にも書いたのですが。光圀は、天皇のその大悪を深くは追求せず、例えば、市辺皇子の殺害についても、簡単に、“十月、市辺押磐皇子・御馬皇子を殺す”と書いているだけで、例の<陽ーイツワリテ>等の言葉は省いています。やや同情的に客観的にその歴史を紹介しているだけです。
 なお、嬖幸<ヘイコウ>と云う言葉ですが、「身分の低い者が、主君などに、特に、かわいがられる」という意味です。要するに、えこ贔屓が激しいという意味です。こんな天皇であったことには間違いありません。