私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

雄略天皇とは

2015-09-29 15:17:08 | 日記

 ちょっと、又、話がそれます。

 21代天皇雄略について少々説明を加えておきます。雄略と云えば、もう数十年も前だと思うのですが埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれていた銘で有名になりました。

 ”獲加多支鹵”という5文字が書かれた鉄剣が出土したのです。この獲加多支鹵<ワカタケル>こそ雄略天皇です。その他、この<ワカタケル>という銘の刻まれている鉄剣は熊本県の江田船山古墳にもありました。このことから、此の天皇の時代に、倭の政権が関東地方から九州地方まで広がり、強力な中央集権の国家が出現したことが伺えます。その時代は西暦470年頃で、中国の宋書にある「倭の五王の一人武」の時代に当たります。そのような強大な国家を実現させた天皇ではありますが、大変な独裁者で、随分と阿漕な事もしたらしく、「大悪天皇」とも云われております。

 この雄略天皇のについて、明日から、もう少し詳しく説明したいと思います。


ちょっと時間が空きました。

2015-09-28 18:01:31 | 日記

 吉備の美女について書いていたのですが、またその続きを書いてみます。何時だったかは忘れてしまったのですが、多分3年ほど前にこのブログで取り上げたことがあったと思うのですが、吉備には太古の昔には日本を代表するような美女がうようよとするぐらい沢山いたことが日本書紀などを見ておりますと出ております。

 その一番は、何と言っても、「黒日売」です。当時の絶世の美女の一人だったことに違いがありません。次は、当然、兄媛を上げなくてはなしません。では、3番目となると、「稚媛<ワカヒメ>」です。稚媛とは、雄略天皇の時代の代表的な美女だったのですです。

 ここで又寄り道を。
 日本の歴代の天皇の内、(16代)応神天皇ー(17代)仁徳天王ー履中天皇ー反正天皇ー允恭天皇ー安康天皇ー(22代)雄略天皇と続きますが、3番目の美女、「稚媛」は22代の雄略天皇の時です。この時代は天皇の勢力が一段と増し、吉備など地方の大王の力が弱まった時なのです。

 どのように吉備の国が衰退していったかというお話を、この美女「稚媛と絡めて紹介したいと思います之でお読みください。


その後の黒日売は

2015-09-16 10:44:31 | 日記

 「由久波多賀都麻」と、己の定めに哀愁を込めて詠いあげた黒日売ですが。この後、どうなったのでしょうか?????
 それについては歴史は何も語ってはいません。これだけで、黒日売についての記述は、終わっています。その後、彼女は幸福なる人生を送ったのか、そうでなかったのかは定かではありません。ただ、存在の時間的な差異が大きい(100年の差)ために、現代では、その名は消え去ってしまっておりますが、「黒姫塚」の伝説だけが、わずかに、残っております。備中国分寺の近くにある、現在では、「こうもり塚」という名が一般になっていますが、かっては、この古墳が黒媛のお墓だと言われていました。

 なお、彼女の父は「吉備海部直」と書かれており、吉備の海である「穴海」を中心として、瀬戸内地方を支配していた海の王者だったと思いますです。でも、彼は、どこを根拠に活動していた人か、その名前は?それらは総て謎なのです。でも、堂々とした日本の国史である古事記に書かれているお話です。あったか無かったか、存在していたかしていなかったかは不明なのですか、吉備人の一人として自慢できるお話の一つだと思い、私は、しきりに広めているのですが。

 まあ、これで、日本書紀の「兄媛」と古事記の「黒日売」についての吉備の美女のお話を終えます。


「由久波多賀都麻」を再度???

2015-09-15 09:40:46 | 日記

 「由久波多賀都麻」<ユクハダガツマ>について、本居宣長は、「古事記伝」で、次のように書いております。

”さて、誰夫とおぼめき云るに、大后を憚り賜いひて、御思すままにも得物し賜はで、いそぎ還り坐スを、あはれと思ヒ奉れる意含みて、いとど別レ奉る情深くあはれに聞こたり”

 と。なお、「おぼめく」とは、知っていながら、知らないふりをするという意味です。念のために。

 見ても、すぐ、お分かりのように、宣長は、この中で「あはれ」を、二度、使っております。
 この「あはれ」ですが、古来から、云い尽くされている言葉ですが、辞書によりますと、その情については沢山の解釈がしてありますが、この場の「あはれ」に相当するものには、「(感嘆・嘆美・悲哀・哀憐・同情・愛着・驚嘆など様々な感動を表す言葉で)ああ、ほんとうに」という解釈だと思います。
 その内、最初にある「あはれと思ヒ奉る」は同情の情ですが、最後に書かれてある「情深くあはれ」は、悲哀・哀憐の情で、その違いを彼らしく上手に使い分けしている好例ではないでしょうか。
 
 なお、是も蛇足ですが、宣長は、「あはれ」は感嘆の言葉「ああ」と「あれ」からできた言葉だとしております。

 


いわずもがな

2015-09-14 07:57:46 | 日記

 今更この黒日売の歌を解釈してもどうにもならないのですが、ちょっとばかり知ったかぶりして、解説してみます。

 「夜麻登弊爾 由玖波多賀都麻<ユクハダガツマ> 許母理豆能<コモリズノ> 志多用波閇都都<シタハヘツツ> 由久波多賀都麻」

 ・夜麻登弊爾<やまとへに>、 難波の都ですが「倭の方に向かって」という意味です。 
・許母理豆能<こもりずの>、 「隠水の」で、草の下などに隠れている沢や泉で、次の「したよ」    の枕言葉です。 
・志多用波閇都都<したよはへつつ>、「したよ」は、しのびかくれるようにして 「はへつつ」は、こっそりと最愛の女性を尋ねてお帰りになる気の毒なようなお姿という意味です。

 「そんなにまでして<コモリズノ>私をお尋ねしてくださって、何と言ったらいいか分からないぐらい好きなあなた。もっともっと私の側にいてほしいのですが、それもかなわず、どうぞお元気で国のご政道にお励みください。時には私の事も思い起こして下さいね」

 「由久波多賀都麻」<ゆくはだがつま>
 此の言葉に込められている黒日売の心はいかばかりであっただでしょうか。想像を絶するような惜別の悲痛な心があったということは想像できます。
 此のたった7文字があるために、この黒日売と仁徳天皇の恋の物語が生き生きと我々の前に広がってくることができるのです。

 そんなことで、古事記の中でも一番私の好きな巻なのです。どうでしょう。