私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

碓女<ウスメ>と阿曾女<アソメ>

2018-05-31 15:37:59 | 日記
 天若日子之葬儀です。御食人<ミケビト>の次に

         “碓女<ウスメ>”

 「米を舂く女性」が出てまいります。

 ここで、また、この<ウスメ>について、私見を述べてみますのでおつきあいを!!!。

 我が町吉備津にしかない独特の伝統行事、吉備津神社にある「お釜殿」(このお釜の下に吉備津彦命が退治した鬼“温羅<ウラ>”が埋めてありますが)で、毎年、年3回の町内祈祷の行事があります。此のお釜殿の行事を執り行う人が
         “阿曾女<アゾメ>”
 です。お祈りが済んで、参拝者に「お釜殿の直会<ナホラヒ>」(玄米数粒の入った小さな紙袋)を阿曾女からもらい、後日、ご飯と一緒に炊いていただきます。一般にいわれている「直米」とは、此のお釜殿の「直会」は、聊か、その趣が違いますが。
 このように、どうして「玄米」数粒を配るのでしょうか。今までその説明を誰もしておりません、あの藤井高尚でさへもです。それについて、此のお釜殿の直会は、この太古の葬儀の形式が、現在まで残り伝わってきている一つではないかと私は考えております。
 
 古事記にある“碓女<ウスメ>ですが、書紀には“舂女<ツキメ>”とあり、葬儀の時に玄米を白米にするために精米する女性をいった(宣長説)のだとあります。

 このように事から分かるように、ウスメは何時も玄米を持ち、葬儀に使うご飯にする白米を精米する役目を担っていたのです。現代の阿曾女が配るお米は、葬儀の時でない、普通の時ですから、持っているのは玄米だけです、だから、玄米を配ってくれるのではないかと考えております。

 そんなことから考えを拡げてみると、もともとは、ここ吉備津神社でも、お釜殿に仕えていた女性を太古の呼び名「ウスメ」と呼んでいたのですが、「温羅<ウラ>の里」である「阿曾<アゾ>の女」に関連ずけて、お釜殿を守る女性を、特別に「ウス」から「アソ」に変えて「アソメ」と呼ぶようにしたのではないかと思うのですが、全くの素人の私見です。

 「あ そ?」と、人を小馬鹿にしたような、いつも上の空で聞いていたのではと思えるような言い方しかできない何処かの国の罪のない大臣さんさんの言葉のように、これもあまり信用して頂けないのではないのかと思っておりますが・・・
 

天若日子の葬儀について

2018-05-30 11:32:34 | 日記
 “御食人<ミケビト>”殯<モガリ>の間、死者に供える饌を執り行う人の事です。此の役割を
            “翠鳥<ソニドリ>”
 としていますが、カワセミです、よく水に潜って魚を取る鳥と云う意味で、死者に食事を運ぶ役目を命じたのです。誰でもいいわけではありません、それぞれの役目に適した鳥を選んで任命しているのです。
 此処で一寸訂正します、最初に書いた「岐佐理<キサリ>」ですが、食事を運ぶ役目だとしたのですが、古事記伝をよく読むと、これは死者の食事ではなく葬儀の時に先頭に水を入れた器を持って行く人のことなのだそうです。だから吉備津神社の祭りの「御盛相」もそれではなく、今日の「御食人」のこと之ようです。改めて訂正します。お許しくださいね。

掃持<ハハキモチ>

2018-05-26 10:32:17 | 日記
 天若日子の葬儀です。昨日書いた“岐佐理<ギサリ>”と云うしきたりが日本の太古からあったと言う事が分かります。死者への食事を運ぶ役目をする人です。此の他に、次のような役配の人達がいたと云うことは分かります。

                “掃持<ハハキモチ>”
                “御食人<ミケビト>”
                “碓女<ウスメ>”
                “哭女<ナキメ>”

 先ず「掃持」ですが、一般的には「喪屋」を掃除するための箒を持つ人と解釈されていますが、私はそうでなく、現在でも、死者の通夜の時に、悪魔を払いのけるために死者の体の上に箒を置く習慣が残っているのですが、「掃持」は、箒を持って死者のいる場所へ行く人、その役割を司る人ではないかと思います。なお、この役目を受け持ったのがこの場合は「鷺」です。鷺は頭の後ろから箒のような羽が付いているからだと宣長先生は考えております。
 

“河鴈為岐佐理持”

2018-05-25 09:50:39 | 日記
          “河鴈為岐佐理持”

 天若日子の親や兄弟たちは、「喪屋<モヤ>と作って」その後です。当然、その後に本葬が営まれるおですが、それが、これです。
          <カハガリヲ キサリモチ シテ>
 と読みます。この意味も何の事だかさっぱり分かりません。そこで、又、宣長氏から。“河鴈”は川に住む雁のことで、次に在る“岐佐理<キサリ>持<モチ>”は、葬儀の時に死者の食を戴き運ぶ(片行)人の事だと。

 此処で、又これも余残事ですが、「我が町吉備津」のお祭に「七十五膳据」の行事がありますが、其の中心はお供えは「御盛相(おもっそう)」と称される飯です。

         

         

 (作り上げられた御盛相とその準備にいそしむ氏子の人達)

 この写真のような御盛相を七十五膳作り、神殿まで運ぶ行事が「七十五膳据」のお祭です。これが古事記の“岐佐理持<キサリモチ>”を現代に伝える絵巻物なのです。
 そんな説明は誰もしませんが、私は、これは上古の葬儀の形式の名残りを現代に伝える物ではないかと、密かに考えております。昨日ですが、「日本遺産」が新たに13件追加されましたが、その中の一つに「桃太郎伝説」が入っておりますが、其の中心である「吉備津神社」の行事の中に、このようなお祭があることを、此の機に、もっともっと人々に知らせることが大切だと思っておりますが????