私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

美袋

2018-08-31 20:07:57 | 日記
               「美袋」  
 これを何と読むのか知っておりますか。大国さんが出雲の国から吉備に国へ来た時、其の肩にかついだ大きな袋を置いた処から付けられた地名なのです。
 神話には出雲のダイコクが吉備の国に旅したという記述は無いのですが、吉備にはこのような大変読みずらい名前の地名が残っております。おれを

               {みなぎ}

 と読んでおります。そこの古老の話です。

 “むかし、むかしの話しじゃたんだ。ある時になあ。出雲におったダイコクさんが、なんの用だあったんかわからんのじゃがなあ。この吉備の国へおいでんでんさったんじゃとう。高梁川をつとうてきたんじゃ。その途中で日が暮れてしもうてなあ。しかたねえんで、そこら辺にあった寝るのに都合のええ山があったんで、そこで寝たんじゃと。その山が、今、「大黒山」といわれておるんじゃ。でも、大黒さんが持っていた、おおけえ袋じゃがな、それを山のそべえ ええてえて、寝たんじゃと。其のダイコクさんが置いてえた処がそれからというもの、ぼっけえ 美しいええ土地になって里人が ものすうげえ よろこんあだそうな。せえから此処が

              「美袋」

 と命名されたのです。その読み方は、最初「袋」は「嚢」という字だったのですが、其の書き順が難しかったので同じ「ふくろ」とよむ「袋」にしたのだそうです。その読み方も「のう」だったのですが、その「う」、さらに、「ぎ」に変化したのだと言われております。なお、兵庫県にも、現在も、此の字を使った「美嚢郡」がありますが。この「美袋」とどういう関係があるのかは分かりません      



オホクニは、更に、言います

2018-08-31 08:53:22 | 日記
          “此葦原中国者随命既献也”

 <コノ アシハラノナカツクニハ ミコトノ マニマニ スデニ タテマツラム>とです。これで、ひとまず、一件落着です。
 蘇かし、どうも不思議に思えることがあります。どうでしょうか??それはオホクニは出雲の国の支配者です。それがどうして、ここでは
           “葦原中国”
 と、日本の国全体の統治者然の如くに言ったのでしょうかね。当然、当時は、出雲の国だけではなく、吉備の国も筑紫の国も、この葦原中国にはあったはずです。オホクニは伯耆の国や越国辺りまでは、その勢力を伸ばしていたことは古事記から読みとれるのでが???他国まで支配していたようには思われませんが???

 此処で、一つ、このオホクニが他の国を尋ねたという言い伝えがあることはあるのですが??・それをご紹介します。
 私が生まれたのは、が平安時代の「類聚和名抄」にある備中国の賀夜郡に「日羽」というのがありますが、そこに「美袋」という大変難しい呼び方をする集落があります。この名前の由来が、此の大黒様から付けられたのだと言われております。もうお分かりだと思います。「袋」とは、オホクニが持ち歩いたあの「袋」から付けられた名前です。古老は言います。

  「昔々の事じゃった。ある時なあ、出雲の大黒様がのう。重たえ大きな袋を肩にして、吉備の国へおいでんさったんじゃ。高梁川を下られてのう、夜になったけいえのう。ダイコクサンはこの地でとまられたんじゃ。そこが、今、「大国山」という名前になっておるんじゃ。そして、持っておったおおけえ袋を、ぼっけええ、つかれておったけえのう、そけえ放り投げるように置いたんじゃと。わかるじゃろう・・・だいこくさんがその袋を置いた所がまるい平地となって広がったんじゃと。そこが、それからぼっけえ美しい平地に生まれ変わったんじゃと。
 だから、これ以後、此の地が

「ここは、ダイコクさんがかちいでおった袋の後で、ものすごうきれえなところだったもんで」此の地が「美袋<ミナギ>」と呼ばれ様になったんなじゃと。
  

建御雷神はオホクニの元に帰り来て・・・・・

2018-08-30 09:14:17 | 日記
 事代主命と剣御名方神との結末を、出雲まで立ち帰ってオホクニに伝えるのです

            “随天神御子之命勿違訖”

 <アマツカミノコノ ミコトノ マミマニ タガハジト モウシヌ> 

 と。更に、まだ心配事があったのかもしれません。この建御雷神、よほど最深の注意を施して物事を推し進めると言う「慎重居士」の神だったのでしょうかが、再度、出雲に帰って、オオホクニに物申しております。

            “故汝心奈何<カレ ナガココロイカニゾ ト トイタマイキ>

 「あなたのお心はどうでしょうか。此の二加神の申す通りで、いいでしょうか」
 と、更に、念を押してお尋ねになられるのです。すると、オホクニも、はっきりと言います。

            “僕子等二神随白。僕之不違”

 と。「息子二人が言う通りです、私の心もまったく二人の心と違わず。同じで。」と言われたのです。

 これで、御雷神の仕事は終わり、後は高天原のアマテラスに復命すればよいだけですが、これで、すべて終わって、次の物語に入るべきだと思うのですが、<さに 非ず>です。まだ、この出雲でのお話が残っているのです。そこまで物語を深く追い求めなくてもよさそうなのですが、どうしてかわ分からに之ですが、稗田阿礼の性分でしょうか、オホクニについて忖度でもしたのでしょうか、「古事記」は、とことんまで、この結末を追い求めて、物語を進展させるのです。

更に続けて・・・

2018-08-25 11:36:23 | 日記
 建御名方神は「恐れ入りました。」と言った後から、次のように言うのです
 「私は此処から以後どこへも行きません。父の言うように、また、兄が言うようにこの国を天神御子之命にお譲りします。
 それを

    “隨天神御子之命献<アマツカミノミコノミコトノ マニマニ タテマツラムト モウシタマイキ>

 と書いてあります。やれやれです。これで建御雷神の使命は終わり、無事に、アマテラスに復命できます。その前に、この神様m大変慎重な性質だったのでしょうか、それとも責任感が重たかったのかは知れませんが、また飛んで出雲の国まで立ち返ります。

“恐。莫殺我”

2018-08-24 10:43:11 | 日記
              “恐。莫殺我”
 を <カシコシ。アオナ コロシタマヒソ>と読ましております。「な~そ」です。「決して~するな」という禁止を表す言葉です。

 ということは、建御名方神は、今にも殺されるという恐怖のどん底に立たされて、その恐ろしさを今更のように、はたと感じて、とっさに出た言葉だと思います。何のことはない、ただの弱虫を象徴する言葉です。駄々っ子という意味の「きかんぼう」という吉備の方言がありますが、世間を知らない、まだ、ほんの幼子「きかんぼう」の言動を堂々と書き表しております。
            
               “恐<カシコシ>”

 と。そのまず初めに、とっさに出た言葉として「ちょっとお待ちを」ではなく、「恐」と言わしめた言葉を書いておるのです。恐怖のどん底に陥り、その対策に苦慮して、とっさに出た言葉という事を表しているのです。

  「今、自分はどうしていいか分からないくらい、あなたの前にいるのが恐ろしくて堪りません。手も足も出ません。無条件降伏します。降参します。ギブアップです」

 この言葉が、まず、口を衝いて出るのです。先程の

          “忍忍如此者言<シヌビシヌビカクモノイウ>”

 の言葉の元気さは何処に行ったのでしょうかね???

 世間知らずの幼い神の言動を、最も簡単に、しかも、適切な言葉として「恐」という言葉を選んで言い表しているのです。あのオホクニのお子様にです、こんなことをも無遠慮に、今、流行りの「忖度」も何もありません、堂々と書いているのです。そんな古事記に、今更のように面白さを感じながら読んでいます。
 なお、これについては宣長も“恐。莫殺我”は一連の言葉ではなく、“恐”は独立している言葉だと説明があります。  、