倭王「武」から宋王に宛てた上表文によれば、当時の高句麗は,昨日“句驪無道図欲見吞掠抄辺隷虔劉不己”と書いたように、覇権を頻りに周りの地域に広げていた時代です。その辺りの歴史について、先にあげた吉田博士の
「日韓古史断」によれば、当時の高句麗王の名は「璉」で、長壽王(413~491年)と呼ばれていたのです。その国王「璉」は“談徳雄偉奇材”<その談には徳があり、、勇ましく偉く、めったにな逸材な人物>で、戦えば勝ち攻めれば取り、一世の間六十四城一千四百村を攻破し、既に遼東を略有し、鮮卑と相争い、南は小海に至り、北は旧扶余に接し、終には、次の地図のように満州地方にまでその勢力を伸ばし、広大な領地を支配するようになったのです。また、境を接する百済や新羅にも、次々とその刃をむけ、人々を恐怖に陥れます。
です。
「古史断」にはその時の様子を
“大挙南伐し百済を陥れ悉く其の縣邑を略す”
”是より兵禍連年攻伐やまず”
“新羅を襲い此を敗る”
と書いております。