私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

480年代の高句麗は??

2016-10-31 08:34:37 | 日記

倭王「武」から宋王に宛てた上表文によれば、当時の高句麗は,昨日“句驪無道図欲見吞掠抄辺隷虔劉不己”と書いたように、覇権を頻りに周りの地域に広げていた時代です。その辺りの歴史について、先にあげた吉田博士の  

               

 「日韓古史断」によれば、当時の高句麗王の名は「璉」で、長壽王(413~491年)と呼ばれていたのです。その国王「璉」は“談徳雄偉奇材”<その談には徳があり、、勇ましく偉く、めったにな逸材な人物>で、戦えば勝ち攻めれば取り、一世の間六十四城一千四百村を攻破し、既に遼東を略有し、鮮卑と相争い、南は小海に至り、北は旧扶余に接し、終には、次の地図のように満州地方にまでその勢力を伸ばし、広大な領地を支配するようになったのです。また、境を接する百済や新羅にも、次々とその刃をむけ、人々を恐怖に陥れます。

                です。

  「古史断」にはその時の様子を

            “大挙南伐し百済を陥れ悉く其の縣邑を略す”

            ”是より兵禍連年攻伐やまず”

            “新羅を襲い此を敗る”

 と書いております。
  


“句驪無道図見吞掠抄辺隷”

2016-10-30 10:05:00 | 日記

 昨日の宋書にある

             “句驪無道図欲見吞掠抄辺隷虔劉不己”

 について、少々説明を加えておきます。
 「句驪」とは「高句麗」の事です。その高句麗が(無道図欲見吞<ムドウニシテ ハカリテ ケンドンセント ホッシテ)なりふり構わず情け容赦なく(掠抄辺隷<ヘンレイヲ リャクショウシ)辺り一帯を荒し回り略奪を欲しいままにし(虔劉不己<ケンリュウシテ ヤマズ>)殺戮を繰り返している。

 と、倭王「武」は高句麗の無道ぶりを宋王に上表しております。そのために、倭国からの使者が途中で押し留められたり、航海の妨害をされたりして貴国まで行くことができません、と。つづいて、このような無法な「高句麗」に対して倭国は制裁を加えようとして色々と対高句麗政策を講じているのだが・・・と訴えております。


作山古墳の上の瓦けに(中学の時の遠足)

2016-10-29 11:36:09 | 日記

 昭和町立(現総社市立)昭和中学校の2年生の秋の、汽車と徒歩による、「作山古墳」への遠足です。細かいことは忘却のかなたにあるのですが、当時(昭和26年頃)作山古墳の上には「かわらけ」(茶色の土器のかけ)が散らばっており、それを拾っては投げて遊びました。中には、丸い大きな 土管のようなものが、古墳の上に、顔を覗かせており、それを足でつついて壊し投げてたりもしました。    
 まだ、古墳とは何か、ましてや、日本第9番目の大きさを誇る前方後円墳の歴史的価値も、また、古墳を取り囲んでいる埴輪についても、何も知らない中学時代です。生徒と一緒に投げて遊んだりもする先生も有りましたから、先生も、きっとその意義をなにも知らなかったのではと思います。まだ、それぐらいしか歴史認識の無かった時代の話です。
 その時、投げて遊んだ瓦けの一つを、私はどうしてだかは分からないのですが、ポケットに入れて帰ておりました。それが、高校生の時だったと思いますが、貴重な日本歴史を語る資料の一部であることを知り、びっくりもし、また、それが契機になって、私の歴史に対する興味を抱かせる原因の一部になったのです。

 マア 大げさに言うと 社会科の教師になって、生徒に「古墳とは何か」を教えてあげたいと思うきっかけを作ってくれたのが、この時の作山古墳への遠足だったのではないかと思うのですが????。この遠足がもとで、80歳になった今でも、郷土の歴史に大変興味を持って、時々ですが、住んでおります吉備津に詰まっている歴史的資料を探りだしたりもしております。 

 


「日韓古史断」では、当時の日韓関係を如何に・・・・

2016-10-29 08:07:57 | 日記

「文献通考」に、雄略帝の時代(480年頃)の中国への航路は、百済から遼東を経由したものだったと、昨日、書いたのですが、その参考資料として使ったのが、私の持っている自慢の古書、明治44年に出版された吉田東吾の「日韓古史断」です。その中に

                            

  “・・・・多くは百済に出でゝ西航し、其の筑紫より知訶島を経て直渡呉越を指せるにはあらず、隋・唐に及び朝遣使の発送あるに至り、初めて直に知訶の美弥良久崎より西渡したりと云う・・」

と書いてあります。
 九州から直接中国に渡ったのではなく、まず、百済に行き、さらに、海岸沿いに遼東半島付近を経由して中国本土に到着する航路です。 この航路を通ると、どうしても、当時、朝鮮北部から満州辺りまでをその勢力範囲にして強大な力を保持していた「高句麗」を経由しなくてはならないのです。当時、その「高句麗」と我が国「倭国」との関係は、391年の好太王碑に書かれている事件でもわかるように、両国は戦争状態だったことが伺われます。それが、宋書に云う

             “句驪無道図見吞掠抄辺隷”

です。、
 此の中に見られるように、あたかも、現在、あれほどの国際世論を無視して核実験などを強行している北朝鮮と全く同じような“句驪無道”???な政治を高句麗も行っていたというのですが、800字を越えましたので、それについては、また、明日に。


「道逕百済」について

2016-10-28 09:12:35 | 日記

 「臣雖下愚」と宋王に宛てた「武」からの上表文ですが、その続きを次のように書いております。

                         “道逕百濟、裝治船舫”

 「我が国から宋の国までは、遥か百済を通りますので、船を整え航海の準備をしております。」と。

 なお、この時期、日本から中国に行くのには朝鮮半島の百済経由で航海するのが普通の航路だったのです。それについて、また、例の筆敬さんのご厄介になるのではないかと思い、私で調べました。

 中国の「文献通考」と云う本に、

                        “倭人初通中国也、実自遼東而来、至六朝及宋”

 「倭人は最初は、中国に渡るには、まず、遼東経由で、それから六朝及び宋に来る」

 と、書いてあり、当時の日本から中国までの航路は、まず、百済に渡り、それから渤海を通り、遼東半島を経由して中国に至ったと言うことが分かります。九州から、直接、東シナ海を渡り明州など揚子江岸に至る航路の開発は遣隋使を派遣した600年頃以降だとされます。
 
 それによって、宋書に書いてある“道逕百済”の意味がはっきりと説明できるのです。