私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

哭声直上干雲霄

2016-02-29 10:28:39 | 日記

   見送りの人々はその別れを悲しんで泣叫ぶ声はそのまま空の果てまでも届きそうに辺り一帯に満ち満ちております。この咸陽橋の近くを一人の旅人が通りかかります。此処で場面が転換します。そうです。この詩の「承」の部分です。
 その人こそ、この詩の作者である「杜甫」です。

  “道旁過者問行人”   <道旁<ドウボウ>の過る者 行人に問ふ>   
     たまたま、その道を旅していた人が、「行人」に、遠征に参加して行く人に尋ねます。すると、行人は

  “行人但云點行頻”   <行人但だ云ふ 點行<テンコウ>頻りなりと>
     「點行」とは、召集令状が出て、征役に徴発されることです。20歳から60歳まで男子は兵役(丁籍)の義務がったのです。この漢代に作られた制度は日本にも伝えられ奈良時代の防人の制に取り入れらたのです。
 それらの行人は、多分、あきらめ顔だったと、思いますが言います。
      
  “或從十五北防河”    <或は 十五より北のかた河を防ぎ>
  “便至四十西營田”    <便ち 四十に至って西のかた田を營む>
  
 ある者は十五歳にして北に送られ川を防衛し、ある者は四十にして西に送られ屯田をする。

 なお、「防河」とは、黄河の泛決<ハンケツ>(洪水の事です)を防ぐための堤防造りのための徴発です。どうして、杜甫は「十五」という数字を使ったのかは不明です。


どうして“欄道哭”なのでしょうか???

2016-02-26 09:43:19 | 日記

 咸陽橋は車や馬の立てる濛々とした塵埃のために、永遠の別れと成るやもしれない愛する息子や夫の姿すら見えない。その為に見送りの人々は 

     牽衣頓足欄道哭    <衣を牽<ヒ>き  足を頓<ソバダ>て 道を欄<サヘギリ>て哭す>  です。

  天宝十年(麗人行に、あの三月三日に“愼莫近前丞相嗔” と、杜甫をして書かしめた故事は天宝十三年の出来事です。なお、その楊国忠が馬嵬駅に於いて殺害されたのは天宝十四年の事でした)に、国は徴兵の命令を出します。しかし、当然ながら、応募する者は誰一人としていなかったのです。そのため、楊国忠は、国家に対して功績のあった者以外は、皆兵制の令を出したのです。そして、国忠自らその第一の高勲者となったのです。だから、“行者愁怨”となり、見送りの人達の「道を欄(さへぎり)て哭す」状態を生み出したのです。

 最後に、一目たりとも、息子や夫の姿を見送ろうと咸陽橋まで来たのですが、その姿すら立ち込める塵埃で見ることができません。どうすることもできません。「牽衣頓足」とは、己の衣を引きちぎるようにして、足をじだんださせて、道を欄(さへぎ)るようにいっぱいになって、恥も外聞もありません、大声を上げて哭(こく) するのです。(「欄<ラン>」を、ここでは、特別に<サヘキツテ>と読ますしております。欄干の欄です)。そして無目的に、ただ、道をあちらに行っては、又、こちらにいってはと、行きつ戻りつするばかりです。
 この「欄」という一語の中からも、“行者愁怨”の悲壮感のものすごさが、改めて、感じられます。その「愁怨」が、4年後に、あの馬嵬駅で、一挙噴出し、楊貴妃にまで達するのです。
  そして、

     哭聲直上干雲霄    <哭聲 直ちに上り雲霄<ウンショウ>を干<オカ>す>

 その声はものすごく、雲霄<ウンショウ>を、干す(普通なら起らないようなことが起こるという意味です)。大空の果てまでにも届く様であったと歌っております。

 

 此の歌も、やはり、杜甫は、例の「起承転結」の様式で歌いあげております。ここまでが「起」です。まあ、こうなっては、先を急いでも仕方ありません。少しづつ、ゆっくりと、この後の「承・転・結」も読んでみたいと思っておりますので、お付き合いいただけますようお願い申し上げます。


「兵車行」を読み進めます。

2016-02-25 09:03:53 | 日記

 まず、その書き始めです。

             車轔轔 馬蕭蕭     <車轔轔<リンリン> 馬蕭蕭<シュクショク>>
             行人弓箭各在腰    <行人の弓箭 各々腰に在り>
             耶嬢妻子走相送    <耶嬢<ヤジョウ> 妻子 走って相ひ送る>    
                  行人は馬や車に乗っている人の後に続く歩いている兵士です。だから、車だけは元気いっぱいの<轔轔>なのです。
                  歩いて遠征する兵士たちの耶嬢(父母)や妻子は、何処までも その姿が見えなくなるまで、「相い送る」のです。その思いは如何??
                  その思いを存分に、この「走相送」の中に杜甫は歌い込んでおります。
                  折角のその人々の思いも               

             塵埃不見咸陽橋    <塵埃に見えず咸陽橋>
                   咸陽橋は長安城外に架かる橋です。ここを渡ると、もうそこは外地なのです。
                     都を離れてしまう最後の橋まで見送ってという人々の思いも、戦車やその馬々のたてる塵埃によっても遮られてしまいます。
                   塵埃にまでもその恨みが、そのもの言わぬ人々の声もが、この「七言」の中に見え隠れしております。           

 

 


ちょいと休憩しておりました

2016-02-24 10:49:40 | 日記

 我が家に不幸がありましたので少々ブログを書く暇もありませんでした。ようやく初7日が終わり一段落しましたので、また、ぼつぼつ「兵車行」を書き綴っていきたいと思います。宜しく。

 「車轔々」と「馬蕭々」という三言の言葉は、この兵車行の行く先を暗示しているような書き出しから始まります。それを受けて次からは七言の詩が重なります
       

     行人弓箭各在腰         <行人の弓箭 各(おのおの) 腰にり>

     耶嬢妻子走相送         <耶(や)嬢 妻子 走りて相送る>

 杜甫は、この詩の最初の書き出しをどう歌うかで大変工夫を凝らしたのではないかと思うのですが、どうでしょうか????。この詩では、さらに、途中に七言ではない五言の詩を挿入して、激動の世の中の様子を訴えるための工夫を凝らして詩と形造っております。

 


「兵車行」です。

2016-02-18 15:32:26 | 日記

 まず、

 “車轔轔<車 轔轔<リンリン> 馬蕭蕭<馬 蕭蕭<シュクシュク>>”

 の三言の二句から始まります。「轔轔」は車がとどろき、きしむ音で、非常に勢いよく通り過ぎて行っている様子です。しかしその車を引張っている馬はと言いますと、 “馬蕭蕭”です。もの寂しげに静々と進んでいる様子です。「誼譁<ケンカ>成らず」と注がしてあります。

 この詩の出始めから 「轔轔」の「騒」と 「蕭蕭」の「寂」の相反する表現を用いて、これから歌う詩のその前途の厳しさを暗示しているのです。