見送りの人々はその別れを悲しんで泣叫ぶ声はそのまま空の果てまでも届きそうに辺り一帯に満ち満ちております。この咸陽橋の近くを一人の旅人が通りかかります。此処で場面が転換します。そうです。この詩の「承」の部分です。
その人こそ、この詩の作者である「杜甫」です。
“道旁過者問行人” <道旁<ドウボウ>の過る者 行人に問ふ>
たまたま、その道を旅していた人が、「行人」に、遠征に参加して行く人に尋ねます。すると、行人は
“行人但云點行頻” <行人但だ云ふ 點行<テンコウ>頻りなりと>
「點行」とは、召集令状が出て、征役に徴発されることです。20歳から60歳まで男子は兵役(丁籍)の義務がったのです。この漢代に作られた制度は日本にも伝えられ奈良時代の防人の制に取り入れらたのです。
それらの行人は、多分、あきらめ顔だったと、思いますが言います。
“或從十五北防河” <或は 十五より北のかた河を防ぎ>
“便至四十西營田” <便ち 四十に至って西のかた田を營む>
ある者は十五歳にして北に送られ川を防衛し、ある者は四十にして西に送られ屯田をする。
なお、「防河」とは、黄河の泛決<ハンケツ>(洪水の事です)を防ぐための堤防造りのための徴発です。どうして、杜甫は「十五」という数字を使ったのかは不明です。