私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

壬申の乱と吉備

2017-03-13 14:41:07 | 日記

 「大海人を討て]との指示が近江より発せられますと、すぐに大海人も兵を吉野で挙げます。それを聞くと、近江側は西国「吉備」と「筑紫」に使いを発して応援を要請します。当時、まだ、その勢力が大変衰えたとは云え、西国の強国は、依然として、この「筑紫」と「吉備」の2カ国を置いてはなかったのです。この一つ「吉備国」に遣わしたのが「樟使主磐手<クスノオミ イハテ>」です。その時、天皇は言われます。

    “もし服せざることあらば、就きて之を殺せ”

 と。その時の吉備の国守は「当摩公広島<タイマノキミヒロシマ>」で、此の人は吉野側、「大海人」の方に心を寄せていました。それが分かった「磐手」は、「広島」を殺してしまいます。
 それに付いて歴史書は

         “広島を給<アザム>きて之を殺す”

 と書いております、「給<アザムク>」がどのような状態を語る言葉かは分かりませんが、「給」ですから何かを与えて安心させてその隙に暗殺したのかもしれませんが、兎に角、殺しております。それがどのようにその後の戦況に影響を与えたのか分かりませんが。
 なお「筑紫」でも「兵を出すことを断った」とありますから、吉備のようにはっきりとした吉野にくみする態度ではなかったのではないでしょうか。やんわりと御断りをしたのだと思います。この事でも分かるように、「吉備人」は、どうも、それまでの歴史的諸事件を見てもに、性急に物事の善悪を判断して、即座にそれを解決にしようとする傾向があるように思えるのですが。やんわりとお断りすることが苦手な集団のように思えます。これも外国からの移民の人達によって発展したお国柄からではなかったのでしょうか。ということは、今の、あのアメリカのトランプ氏的な特徴を持った人間集団だったのではないでしょうかね。

 まあ兎に角、このような大友側の作戦の失敗もあって、この戦いは、結局、近江側、大友皇子が破れ吉野側の勝利に終わり、再び、朝廷は大和に還ってきます。

 なお、此の話の中に出で来る「当摩公広島」なる人物について何も分かってはいませんが、672年頃衰えたと言え、まだ。相当な勢力を吉備国は維持していたのだと言うことは分かります。吉備真備や和気清痲呂などの前の歴史の中にほんの少しだけ顔を見せる人物ですが。


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3 コメント

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4月18日に瀬戸内市で講演します。 (丸谷憲二)
2019-01-20 10:12:08
① 靭負(ゆきえ)神社祭神の天忍日命(あめのおしひのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子で大伴氏の祖先神です。古くから軍事面を担当し皇室につかえ、大連(おおむらじ)として物部氏と共に朝廷の最高軍司令官を務めました。その下には久米部、靭負部(ゆげいべ)、佐伯部などの軍事集団がいました。吉備の諸首長は、壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)に協力して活躍しました。
② 壬申の乱とは、672年(弘文天皇1)壬申の年6月、天智天皇(てんじ)の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が、天智の子である大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)を首長とする近江(おうみ)朝廷に対して起こした古代最大の内乱です。
③ 門脇禎二氏(岡山大学教授)は「日本古代史で最大の動乱に拡がった壬申の乱であったが、その波動はほとんど吉備には及ばなかったらしい。それどころか、この乱に勝利した大海人皇子は即位すると、吉備を国家的重要地域とする判断をもったらしく、壬申の乱の功臣石川王を吉備大宰に任じた。」と纏めています。
④ 平成27年12月6日の講演「ヤマト政権の中心に立ち続けた吉備」で関裕二氏は、「左大臣・石上(物部)麻呂は、右大臣藤原不比等の陰謀によって失脚し、こののち日本は、藤原氏だけが栄える世の中に変貌していくのである。」と話されました。
⑤ 石上(物部)麻呂(640~717)縁の地が石上郷です。676年に37歳で新羅に派遣されるまでの経歴は不明ですが石上郷におられたと考えます。石上郷が最も栄えた時代は壬申の乱前です。
⑥ 『続日本紀』巻五 第43代元明天皇(和銅3年(710)4月~4年4月)に、備前国関連の名前が地名に残っています。710年とは平城遷都です。
巨勢朝臣麻呂(岡山県美作市巨勢)
牟佐村主相模(岡山県岡山市北区牟佐)
忌部宿祢(岡山県備前市伊部)
佐伯宿祢百足(岡山県和気郡和気町佐伯)⑦ 和銅3年(710)3月10日は「平城遷都」の日、つまり奈良時代の幕開けです。『続日本紀』には「始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。」とだけ記録されています。当時の最高権力者の左大臣・石上麻呂は留守居役として旧都(藤原京)に残されました。時の天皇は女性の元明天皇(文武天皇・元正天皇の母)です。この遷都を主導したのは、当時石上麻呂に次ぐ地位の右大臣・藤原不比等といわれています。
⑧ 『日本書紀』巻第29天武天皇にも備前国関連の名前が地名に残っています。第40代天武(てんむ)天皇在位は673~686年です。壬申の乱後です。
草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと 岡山県岡山市東区草ケ部)
大田皇女(おほたのひめみこ 岡山県津山市大田)
大来皇女(おほくのひめみこ 岡山県瀬戸内市邑久町)
弓削皇子(ゆげのみこ 岡山県久米郡久米南町下弓削)
新田部皇女(にひたべのひめみこ 岡山県津山市新田)
佐伯連廣足(さえきのむらじひろたり 岡山県和気郡和気町佐伯)
田井直吉麻呂(たいのあたいのよしまろ 岡山県玉野市田井)等々。
吉備大宰石川王は天武8年(679)吉備で病死し所縁の地名はありません。
壬申の乱の犠牲者、当磨公広嶋(たざまのひろしま)は吉備国初代国主ですが在任中に壬申の乱(672年)が始まり、募兵に来た近江朝廷の使者樟ノ磐手に惨殺され所縁の地名はありません。
伊福部連(いふくのむらじ 岡山県岡山市北区伊福町)等々です。
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石上郷(瀬戸内市長船町磯上)と日向石神社(石上神社)考 (丸谷憲二)
2019-01-20 10:32:51
4月18日に、書き込んだタイトルで講演します。
資料のない時代です。
ご指導いただければ幸いです。
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今日の講演いかがでしたか (赤木亮介)
2019-04-18 18:47:37
があったのですね。その内容が知りたっかたのですが、都合がつかず参加できませんでした。大勢の人が大変興味をもってお聞きしたのではと想像しております。
 歴史とは面白いものですね。
 話は違いますが「令和」で万葉集が話題になっていますが牛窓を読んだ歌が確かにあったと思うのですがどうでしたかね。そんなお話も伺ってみたいのだと思いますが???
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