私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

神倭伊波禮毘古命

2019-03-31 09:16:53 | 日記
 <カムヤマトイハレビコノミコト>です。

 葺不合命と玉依毘売との間に、高千穂宮で、お生まれになった第4子です。ある時その長子「五瀬命<イツセノミコト>との間で話し合われます。
 
           “坐何地者 平 聞看 天下之政”

 これを<イヅレノトコロニマサバ アメノシタノマツリゴトヲ タイラケク キコシメサム>と、大変長ったらしく読むのだそうです。
 要するに、この高千穂にいては「豊葦原水穂国」総てを完全に掌握して治めることが出来ない。何処にいたならば<タイラケク>治めることができるのだあろうか。一番いいのだろうかと“聞看<キコシメサム>”ご相談なされたのです。
 その結果

           “思東往行<ヒムカシノ カタニコソ イデマサム>”

 と相談がまとまり、東に向けて旅立ったのです。これが「神武東遷」の始まりです。



  神武天皇までの古事記をと思っていたのですが、平成も後1ヶ月になり、第126代天皇に代わられます。その初代天皇、神武天皇についても、もう少し書いてみてもいいのではないかと思い、いましばらく、古事記に書かれている神武天皇を追いかけてみますので、お読み下されば幸いです。

なんと育ててもらった・・・・

2019-03-30 15:23:26 | 日記
 母の“姨<ミオバ>”を娶る。そんなことがと思われるのですが、まあ、ともかくも、それが行われたのです。此処で「ああでもない。こうでもない。」と、あれこれと物議を噛まさない方がいいのだそうですが・・・
 何でも書いてある通りに事が進んだという事だそうです。あれこれと批判あるべからずです。宣長先生も

  “いかでか皇朝明神<アキツカミ>の御所為<ミシワザ>を議<ハカリ>奉るべき、あなかしこあなかしこ”

 と云われております。
 どうです。「あなかしこ」ですね????????????

 この依玉毘売命と葺不合命との間に生まれたのが

               “神倭伊波禮毘古命<カムヤマトイワレヒコノミコト>”

 です。

“治養”?????

2019-03-29 10:01:47 | 日記
 穂々手見命と豊玉毘売の間に生まれた

          “波限建鵜葺草葺不合命”
          <ナギサ タケウガヤ フキアヘズノ ミコト>

 ですが、母親の深い愛情であったかその子の“治養<ヒタシマツル>(養育)のために、わざわざ、母親「豊玉毘売」は妹の「玉依毘売」を遣わします。

 なお。この“治養”について、宣長は“比多志痲都流<ヒタシマツル>と読んで、これは

 「日足奉<ヒタシマツル>」と云う意味で、「児は日数の積るに随ひて、成長<ヒトトナ>る物なる故に、日数を足らしむる意以て、養育<ヤシナヒタマフ>ことを、然云なり。」

 と云う意味だと説明があります。この他、「お育て申すために」と簡単に説明がしてある本もあります。

 すると、此の時、玉依毘売の年齢は少なく見積もっても、15、6歳にはなっていたはずです。それなのに古事記では、次に

         “波限建鵜葺草葺不合命。娶其姨玉依毘売命”

 と書かれてありますがちょっと考えられないことでは????????

   

御陵は・・・

2019-03-28 09:14:57 | 日記
 穂々手見命は580歳まで生きて、

              “御陵者。即在其高千穂山之西也”

 “御陵”は、現在では、一般には<ゴリョウ>と呼ばれていますが、これを宣長は<ミハカ>と読むのがいいと説明してあります。<ミササギ>と読む人もいますが、どうでしょうか???ミササギは天皇陵ですから、はやり宣長説の<ミハカ>の方がいいのではないかと???

 なお、これも余残事ですが、我が町吉備津にも「御陵」があります。あの鬼退治の桃太郎さんのお話の元になった孝霊天皇の皇子である大吉備津彦命のお墓だとされて、現在、宮内庁の管理の元に置かれている「茶臼山古墳」と呼ばれている前方後円墳です。
 この古墳が、現在、この地方では誰もが<ゴリョウ>と呼んでおりますが、よく考えてみれば、むしろ宣長風に<ミハカ>と読んだ方がいいのではないかと、何時もニヤニヤしながら聞いておりますがどうでしょうかね。宮内庁でも<ゴリョウ>と読んでいるようです。

 

 


一百七十九萬二千四百七十餘歳????

2019-03-27 10:08:45 | 日記
 「1792470」この数字をなんだと思いますか???「歳」とありますから年齢の事だと分かりますが・・・
 この数字は、昨日、平成天皇が「神武天皇陵」に参拝されたという記事が今朝の新聞にありましたが。この神武天皇について書かれている日本書紀に出ています。

     “自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳”

   「天つ祖の降<アモ>りまししより以逮<コノカタ>、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳」
 この数字は「邇々藝命ー穂穂手見命ー葺不合命」の3名の、高天原から葦原中国(高千穂)に降臨されて以来の数字です。1792470年も経過しているのです。
 とすると、3代で、これだけですから、お一人の年齢は平均しても約六拾萬歳になるはずです。でも、古事記では、その2代目の火遠理命(穂々手見命)は「五百八拾年」の間、高千穂ノ宮にお出でになったと書かれておりますから、この二書の違いをどう読めばいいのでしょうか???日本書紀に書かれている数字に、何処か間違いがあるように私は思います。「500」と云う数字さへおかしいと思われるのですから???まあ、そんなことも書かれているという事実だけでも知っておいてもらいたいものだと思われます。

 これら数字にせよ書かれていることが総てが現実にあった歴史的な事実かと云うことではなく、大昔からそんなことも伝えられて、現代に来ているのだという事を知ればそれでいいのだと思います。此の年齢など総て生物学的には考えられない非科学的なことですが。
 それが間違っているから総てだめだというのではなく、歴史の流れの中でそう受け取られた時代もあったのだという事を知ればそれでいいのではないでしょうか。