私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

"冀暫還之、得省親歟"

2018-09-30 10:20:11 | 日記
             “冀暫還之、得省親歟”
    「ネガハクバ シバラク カヘリ カゾヲ トリミルコトヲ エムコトヲ}
 
 とあり、「親」に「カゾ」とルビを付けていますが、「カゾ」は古語では「父」のことで、兄媛の場合は、特に、故郷にいる母親のことだろうと思われますので、「カゾ」でなく、母親を意味する古語である「イロ」と読ました方がいいのではと思われますが、どうでしょうか?????

 そんなことはどうでもいいのですが、此の愁いを込めた愛妃をご覧になった「応神天皇」は、兄媛の

             “温清之情<オヤヲ オモウ ココロ>”

の篤いのをお聞きになり、早速、云います。

             “還欲定省、於理灼然”
     <カへリテ トリミルコトヲ オモフハ コトワリニオキテ イヤチコナリ”
 
 「故郷に帰って、暫らく合ってなかった親に孝養を尽くすのは人としての当り前のことだ。」
 と言われて、その願いをお許しななり、早速、淡路の三原の海人<アマ>80人を水手<カコ>として兄媛を吉備に送らせます。
 その場所が「私の町吉備津」だったのです。正確には、多分、その当時の吉備の津があった備中国都宇郡(現在の岡山市北区加茂付近)だったのではないかと思われます???

 「おっと・・・・それにしても、今、お前が書いてい膳夫<カシハデ>は何処へ行っていまったのですかか」と問われそうですが、前置きが多くて、そこまでに至っていない事をお詫び申し上げます。もう暫らくお待ちくださいね。

「膳夫<カシワデ>」とは

2018-09-29 10:56:46 | 日記
 こんな言葉!!!聞いたことありますか???「私の町吉備津」と、大変、深くかかわりのある人が「日本書紀」に出ております。その人の名は

             “兄媛<エヒメ>”

 です、先ごろ、「吉備の美女」の所で、一度ご紹介しましたが、再度、この媛について取り上げてみます。

 応神天皇の二十二年のことです。四世紀の終わりごろの人ですが、当時、天皇は浪速津近くの大隅宮に幸<イデマ>しておられました。そこの高台で天皇の妃「兄媛」(吉備ノ臣の出身)が

            “望西以大歎<ニシヲノゾミテ イタク ナゲキキ>”

 それを見られた天皇が、愛しい兄媛の愁いを帯びた眼色に痛く心を痛めて、お尋ねになられます。

            “何爾歎之甚也<ナンゾハ イマシガ ナゲクコトノイタキ”>

 「どうしたことなのですか??。あなたがそのように大層悲しい顔をしていらっしゃると、私まで悲しい気持ちになって仕方がありませんよ。」
 と。すると、下の方に俯いていた兄媛は弱々しく愁いを込めた小さな声で、天皇にお答え申し上げるのです。

 「私には吉備に残した愛しい父母がいます。近年。音沙汰も少なく、今どうしているかとに頻りに気になって仕方がありません。

              “冀暫還之、得省親歟”
 
 と書かれてあります。

水戸神の孫が

2018-09-28 17:12:07 | 日記
  建御雷神が、オホクニの為に、出雲の国の多藝志の小浜に建てた神殿を守る神がやってきます。その神が
      
            “水戸神孫櫛八玉神<ミナトノカミノヒコクシヤタマノカミ>”
  
 です。この「水戸神」は「いかなる神と思うらん}・・・どこかで、此の名前を見たようにも思うのですが????ネットで調べてみると、この神はイザナギ・イザナミが生んだ神様だとしてあります。名前は
            ”速秋津日子神<ハヤアキツヒコノカミ>
 だと言う事も分かります。上代社会は神様だらけですので、その名前を覚えるだけでも一苦労ですよね。
 
 話は、またとんでもない方向に向くのですが、あなたは、アマテラスが「水穂中国」を統治させようとした御子の名前を覚えておられますか。

           「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」
 
ですよ。私は、この欄にもう何回書いたかしれませんが、未だに、すらすらと12字の名前を言うことは難しいのです。我ながら
            「頭(あったま)わりいのう」
 と思っております。

 さて、その水戸神の孫「櫛八田麻神」が、どうして出雲までやってきたのか分かりませんが、降りてきてオホクニの

           “膳夫<カシワデ>”

 になります。
 ここまでくると「ちょっと待って下さいよ。どうしてこの神様がわざわざここに出てくるのか不思議に思われますよね。変ではありませんか???イザナギの子の孫ですよ。そのような大変貴い神様がオホクニの膳夫にですよ」。どう思われます。      

     

              

お月見

2018-09-25 08:23:04 | 日記
 私の町吉備津は、昨夜は生憎の雨交じりのお天気でした。今年は 例年にない、ないないずくしのお月見です。月はなし、すすきもどうしたことでしょうか穂を見せません。勿論、葛も萩もです。その上、御団子も食卓に姿がありません。“月に叢雲”でもと頻りに南の空を仰いでも、辺り一面は黒々として吉備津神社も吉備の中山も見えません。せめてと、お酒だけはと、そのかけらも見せない恋しいお月さまを思って、ついつい余計に頂きました。
 十六夜の月に思いを馳せてながら・・・

 これが昨夜の私のお月見でした。

月天心 貧しき町を 通りなり

2018-09-24 10:00:12 | 日記
 朝から生憎の曇り空です。折角の一年一回の中秋の名月も、唯、三宝にもったいぶったお酒を飾って、私自身の顔を赤らめて満月にするだけの何とも味気ない名月になってしまいそうです。

 さて、皆さんは「名月」と云えば何を思い出されますか・・・私は、毎年、吉備津神社の側にある竜神池を回りながら、普賢院の、今にも崩れ落ちそうな古風な山門の脇を通り抜け、古い宮内のたたずまいをわずかに残す屋並みの中に立ている鳥居を潜り抜け、細谷川の瀬音でもと徘徊しながら、名月や名月やと、作れもしない駄句を漠然と頭に思いながら、唯、夢遊病者のように歩くだけの名月観賞の一時を過ごすのが通例になっております。
 さて皆さんは、此の名月を読んだ名句と云えば何を心に浮かべられますか???私は、毎年の私自身の名月探索の行程から、誠に平々凡々とですが、次の二句を心に描きつつふらついております。

       “月天心 貧しき町を 通りけり” 蕪村
       
       “名月や 池を廻りて よもすがら” 芭蕉 

                 

なお、此の写真は真昼間の宮内に立つ鳥居付近の宮内の屋並みです。決して、貧しき町ではないのですが、江戸の繁華な町の様子に比べると、大層な、人通りも三味の音のない人っ子一人通らない、誠に、侘びしくて淋しげな貧しい感じがひしひしと胸を打つのです。特に、真昼の太陽の元で見る町と比べると、月の光の元で見る町の様相は、その感が大きく思われるのです。

 よかったら一度!!!この鳥居を潜り抜けながら、この蕪村の句を口ずさんでみられたら いかがなものでしょうか。 月明かりの中の“貧しき町を”とは何であるかよくお分かり頂けるのではいかと・・・・