私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

歳の暮れです。

2015-12-31 13:05:27 | 日記

 「白髪新」と,詩人は歌っております。玄宗を取り巻く楽士たちも、随分と、年老いてしまってその演奏する曲も、かってのような勢いはなく、随分と弱々しく年寄りじみてきております。それは玄宗皇帝の権勢と事を一にしており、もう昔の姿はありません。

 その衰えた楽に対して、全盛時代の坐部伎たちの奏でる楽はいかであったか、もう一度詩人の歌からその勢いを見てみたいと思います。

              “仙楽風飄処々聞  緩歌慢舞凝糸竹”

 と、歌っております。
 
 彼らの曲は、あたかも、仙人の歌(仙楽)でもあるような妙なる曲です。何処から聞こえてくるのか遥か空の彼方からでも漂ってるかのように柔らかく辺りに静かに響き渡ります。弦や管から流れ出すその曲にあわせて、ゆったりとした歌声が流れ、その楽に合わせて踊られる舞も、また、歌声と同じく、もの静かで何処までもゆったりとした天衣無縫の羽衣を身に着けた仙女が踊る舞を見ているかのようです。

 なお、此処に記されている「緩」や「慢」は共に「ゆるやか」と読みますが、それでは意味が分かりにくなりますので、吉川幸次郎先生は、特に、これを「緩<ユルヤ>か、慢<シズ>か、と読ませてその違いを明らかにしております

 そのような「雅」なる曲は、今は、聞くことも見ることもできません。過去の闇の中に完全に消されたってしまっております。それを玄宗の老いをこのように画くことによって、人の悲哀を一心に背負って歩いて行った一人の人間としての人生の終焉を敬仰なる言葉で永遠に言い伝えておるのです。

 今、12月31日、pm9:10です。今年もようやくに暮れようとしております。何やかにやっと、この一年も様々な私の人生でした。この年になってその一つづつを反省するのもどうかと思っております。ただ行く川の流れに沿って大仰に生きているだけの人生です。別に明日があるわけでもありませんが、そんなしがない我が生ですが、来年もどうなりましょうか???ケセラセラで生きて行くしか方法は見つかりそうもありません。

 だれかさんおように「何方より来たりて、何方へか去る。また、知らず・・・」という心境にも達せず、いい加減にまたも暮らすだろう来年になることは確かだと思いながら「年越し蕎麦」を啜っております。ご批判を!!!!


坐部伎とは???

2015-12-30 14:04:52 | 日記

 昨日、「座部伎弟子」について書きましたが、またまた、例のお人からのメールです。

 「坐部伎にちいてはのー。ネットで調べてみい。其の絵がでとるけえー」と助け船を頂きました。早速、調べてみました。在りましたので、ネットからその絵を借用してお見せします。

                

  左側が「坐部伎」で、右が立部伎だそうです。この人達によって、玄宗皇帝や楊貴妃の前で、毎日のように演奏された曲が「法曲」なのだそうです。
 唐の「禮楽志」に、「其声清新而近雅」と、書かれています。また、玄宗皇帝が作曲した「霓裳羽衣」の曲もよく彼等によって演奏されたという。
 なお、「坐部伎」の絵で、上部の二人が奏ででいるのが琵琶で、楊貴妃もその名手であったと言い伝えられています。彼女は、更に、3段目の一番左に座って演じている楽器「磬<ケイ>」も又よくしたのです。
 このような事を通してみても、楊貴妃という女性は、ただ、単に、美人というだけではなく、沢山の皇帝との生活をより一層豊かにするこれ等の音楽的な才能もあり、その他いろいろな特技を持ち合わせていたのではなかろうかと思われます。そのような才能があったからこそ16年間もの間、楊貴妃一人で皇帝を独占できたのだろうと思います。


「坐部伎弟子」

2015-12-29 15:59:48 | 日記

  宮殿の奥にある国民の目からも届かない「西宮」に玄宗は幽閉されます。そこでの生活は

             “梨園子弟白髮新”
 です。 

  かつて玄宗皇帝が楊貴妃と共にその演奏を楽しんだ楽団員達のことについて詩人は歌います。「その人達も、早、白髪が目立つようになり成ってしまった」と。
 「梨園」とは、玄宗が権力をまだ有していた時に、宮殿の梨の木の植えてある場所に、音楽を奏でる楽士達を養成するために、皇帝が学校を開いていました。そこで育った人たちを「梨園弟子」といったのです。その中から演奏する楽団員を「立部伎」と「坐部伎」 に分けて、宮殿で、毎日、演奏させていたのです。この内の「坐部伎」は、特に優秀なる楽団員で、演奏する宮殿でも、常に、皇帝や楊貴妃のすぐ近くの宮殿内で、座って楽器を演奏しておりました。定員は3人から12人程度の優れた演奏者でなくては「坐部技」には入れなかったのだそうです。
 
 そんな何時も皇帝のお側に侍っていた全国から選ばれた最優秀の「坐部技」は、往時、2、3百人はいたのですが、今の「西宮」には、人数だけでなく、それらの人も随分と年老いてしまって、その演奏も何処となく弱々しく、かってのような迫力も見られなくなってしまってているのです。特に、その人達が演奏する最も得意とする曲は「法曲」と呼ばれている曲です。その曲は、既に、隋の煬帝の時分からあったようで、誠に「雅<ミヤビ>で清新<セイシン>で、聞く人を何処か幻想の世界までに引き込むような美しい曲で、特に、玄宗皇帝が「酷<ハナハ>愛」した曲でしたが、その曲すら、今は、めったに聞くことが出来なくなてしまったし、聞けたとしても、昔ほどの曲の美しさやその迫力は完全に消え失せてしまっているのです。

 なお、この「坐部技」の奏でる曲は、ある本によりますと、『内容は皇帝の功徳を讃えるもので、永久の清明をもつ、華美で、技巧は「很<ハナハ>だ高きを求め、難度は較高であることが求められた。』と書かれております。

         “椒房阿監娥老” 

 「椒房<ショウボウ>」とは皇后のことで、この椒<ショウ>とは「山椒」のことで、その実を部屋の壁に塗り込めておくと暖房の効果もあり、その他、部屋の悪臭を取り去る効果もあるので、楊貴妃の部屋に取り入れられていたために、その部屋を「椒房」と呼んだ居たのです。「阿監<アカン>」とは、そこを取り締まる女官のことで、また、「娥」とは、青く美しかった眉です。それら皇帝の周りにいる人達も皆も老いが目立ったのです。
 
 この時、玄宗は、既に、73歳です。そこには、もう昔の華美な清新の影は完全に消え失しなってしまっております。

 そのような西宮での年老い老いぼれた玄宗の姿を、直接、歌うのではなく、周りの人達の姿を写すことによって、間接的に、皇帝の老いの姿を歌いだしているのです。誠に技巧的な詩です。改めてその詩人のすごさに心を打たれておるのす。もう何回となくこの詩に目を通したのですが、読むたびに、詩人の偉大さに目を奪われます。

 

 


 


都に帰った玄宗皇帝は???

2015-12-28 10:05:35 | 日記

 都に帰ってからの皇帝の実質的な生活は、その復権を疑った新帝の側近たちによって幽閉された場所”西宮<セイキュウ>”でです。それを受けて

         “西宮南内多秋草” 
 と、詩人は歌います。
 
 南内<ナンダイ>とは、天子の政務する内裏のすぐ南側にある比較的国民の眼に触れやすい場所です。成都から帰国されてから玄宗は、しばらく、その「南内」に住まわれます。それ以来、そこは国民の何時も注目の的になっていました。そこで、「南内」にいる玄宗皇帝が、再び、国民の人気者になりはしないかと新帝を慮った側近たちによって、宮殿の一番奥まった国民の目に届かない場所にある「西宮<セイキュウ>」に居を移されます。
 秋になって、その西宮は秋草が茫々と生い茂るままになっています。そればかりではありません。前のお住まいになっていた「南内」も、やはり、『多秋草』です 
 この「南内」という字を、特に、詩に挿入することによって、白居易は、あの強大な実権を持つ絶対的な存在としての有の皇帝と、人の噂にも登らないまでに完全に忘れ去られてしまった無の皇帝を画くことによって、人間の摩訶不思議な宿命を強調しております。
 続けて、詩人は、これでもか、これでもかと、必要に落ちぶれた人間の権力の虚しさ書き綴っております。

         ”落葉滿階紅不掃”
 と。  <落葉 階に満ちるも 紅を掃らわず> 階段に落葉が一杯に積もっているのに誰も掃こうともしない。

 なお、私の持つ「古文前集」には、この「落葉」が「宮葉」となっておりますが、それだと、新しく幽閉された「西宮」にある階段付近に落ち葉のことになり、「西宮南内多秋草」の詩と少々意を異にするようになるのではないかと考えられ、「落葉」の方がいいのではないかと、私は一人思っております、どうでしょうか???。
 また、「紅」ですが、ある本によりますと、『紅(あか)けれど』と読増しており、『落ち葉がつもり、くさって、紅くなっても』と説明しておりますが、「落葉」は「紅葉」のことで、そんなに腐ったりすることによって紅(アカ)くなったりはしないと思います。腐ると「紅く」でなく、むしろ、「黒く」なりますもの。枝葉末節論ですが   

 

    
      


再び、都「長安に帰り着いた玄宗皇帝は

2015-12-27 11:40:59 | 日記

 成都から安禄山の死後、再び、玄宗皇帝は都「成都」に、馬に信(マカセ>て帰り着きます。さて、帰り着いた都「成都」は

 歸來池苑皆依舊 
              都に帰ってみれば池も庭も、昔と同じで、「皆依舊<ミナキュウニヨリ>」何一つ変わってはい。
 太液芙蓉未央柳
              太液池の「芙蓉」蓮の花も、「未央<ミオウ>」宮殿の前に植えられていた柳も、何も変わってはいない。
 芙蓉如面柳如眉 
              蓮の花は楊貴妃の顔、柳の葉は楊貴妃の眉のようであり、
 對此如何不涙垂 
              これら蓮や柳を見ていると、「如何<イカ>んぞ 涙の垂れざらん」涙がこぼれおちない事があろうか。自然にこぼれてきた。
 春風桃李花開日 
              春の風に吹かれて桃や李の花が咲く時にも、
 秋雨梧桐葉落時 
              また、秋の雨で桐の葉が落ちる時にも、いつでも、
   
 「校本古文前集」には、此の部分について、次のような小字で解説を施しております。「対此景物使人傷悲」と。玄宗が桃の花が咲く春は、勿論の事き、桐の葉が落ちる秋でも、成都から、この長安に帰って来てから、今までずっと、この風景を見て楊貴妃と過ごした日々の事を思い出しては心を深く悩ませるのである。人をして傷悲させむ。

 はるばる成都から帰り着いたのですが、その時はもう皇帝ではなく、上皇で実権は息子の新帝にあったのです。その新帝の側近たちは玄宗の権限がまた復活するのではと疑い、実質的な隠居に幽閉したのです。だから、玄宗は、何でも今までのように自由に動きまわることはできず、何か、今の自分の境遇に随分と悲哀を感じていたのです。それが、猶更に、「使人傷悲」したのです。