私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

淤志弖流夜 那邇波能佐岐用 

2015-07-31 12:36:14 | 日記
 “淤志弖流夜 那邇波能佐岐用 伊伝多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能志摩 母美由・・・”

日本書紀は漢文で可あれているので仕方がありませんが、古事記にも、又、こんな小難しい言葉が延々と並んでいるのです。これを語ったのが稗田阿礼で、太安万侶が筆記したのだそうです。今から2700年も前の話なのです。それを今の我々が頭を傾けながら必死に悪戦苦闘しながら読んでいっているのです。そんな我々の苦労なんて太安万侶には分かってもらえないと思いますが????

仁徳天皇の歓びたまいし歌

2015-07-30 11:30:54 | 日記
 “オシテルヤ”に続く「難波」ですが、ここに仁徳天皇の宮殿を造られたのです。この場所を「本居宣長は、「上本町通安曇寺町」の辺りだと書いております。現在このような場所があるのかどうかわ知りませんが、兎に角、場所的には天王寺の駅近くではないかとおもうのですが???このあたりまで海が入り込んだ居たのは確かです。
 なお仁徳天皇が作った宮殿の名は「高津宮」です。この宮は港より少し高台にあったので。高津という名がつけられたのではないでしょか????やや高台にあったことは確かです。港が眼下に見渡せる場所で黒日売を見送り、又、此の度もその場所から遠く西の彼方を

 “遥望<ハロバロニミサゲマシテ>”
  
 (みさげまして)です。高台から望んだことがこの言い表わしからもよく分かります。

淤志弖流夜

2015-07-29 17:51:27 | 日記
 「淤志弖流夜」。<オシテルヤ>と読みます。これは「難波」に懸かる枕詞なのです。

 仁徳天皇は淡道島(あわじしま)に行幸に行くと云って大后を欺きます。本当は吉備の国まで行って黒日売に逢うのですが。

 「此の度は、大后は私の心の底まで読む事が出来なくて、うまいぐあいにOKが取れた、。こんにに心地よいことは久しぶりだなあ。速く黒日売と逢いたいな」

 と、心ここにありません。でも、この計略が大后には、決して、ばれないように用心はしていたのです。でも、独りになると、心はもう吉備に飛んでいます。その思いがすぐ歌になって口から飛び出してきます。その歌の最初の言葉が「おしてるや」です。そこら辺り一帯が太陽に照らされて光り輝いているようなところということから「難波」に懸かる枕詞となったのだそうです。
 たから、当然、次には「難波<ナニハ>」がきます。万葉仮名ですから、大変、読みにくいのですが書いてみます。
 
 “淤志弖流夜 那邇波能佐岐用 伊伝多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能志摩 母美由・・・”
 (おしてるや なにはのさきよ いでたちて わがくにみれば あはしま おのごろしま もみゆ・・・)

 と歌を詠んでいます。

 こんな仁徳の歌が飛び出してくるのを、何となく、皆さんにそれとなく知らせたくて、2,3日前から、私の下らない駄歌を書いておっただけなのです。失礼しました。

 此の歌の解説については明日からまた少しづつと思っております。お付き合いください。

暑いです。参議院で戦争法案の審議が始まりんした

2015-07-28 20:36:14 | 日記
 誠に暑いです。台風12号は何処へ行ったのでしょうかね??「台風一過の・・・・」。何て風情を弄ぶなんてどんでもありません、とにかくに、暑い暑いの一日でした。途中、時ならぬ集中豪雨も、ごく短時間ですがその現象の一端を見ることができました。
 何かへんてこりんな気象状態ですね。人間の為せる業でしょうが。
 この日本は何処へ行くのでしょうか。参議院の審議が始まりました。この天侯と同じで、何かとんでもない方向へ向かっているようで心安らぐひまがありません。安部さんのハンドルさばきを大いに心配している一国民です。あの人を小馬鹿にしたようなものの云い様はきいていて感じが悪いですね。

 又も脱線してしまいました。お許しください。大后が仁徳に欺かれたように国民のみなさんも、今の政治家の口先だけの思い付きの薄っぺらな意見に騙されないようにしようではありませんか。要注意です。皆で声を張り上げる必要があるように、私も、思います。

「欺大后<オホキザキヲ アザムカシテ>」

2015-07-27 17:04:01 | 日記
 仁徳天皇はその后「石之日売命」に隠れて、吉備の国に帰った黒日売に逢いたくて逢いたくて仕方がありません。何かいい知恵はないかと考えます。それが「欺大后」だったのです。
 いくら考えに考えても、どのように「欺」けばいのか方法が見つかりません。「そうだ」とばかりに思い付いたのが、父「応神天皇」も行ったことがある、淡道島(あわじしま)へ行幸することです。父親も行ったことがある島ですから、それについては大后は何も文句を言うはずもありません。(古事記には「淡道島」、書紀には「淡路島」)

 この淡路島に付いては、詳しくは古事記には記されてはいませんが、日本書紀には、相当詳しくこの島の良い所を書きならべております。
 
 “高い峰々が連なり、その峰々から深い谷が続き、香りのよい草木も盛んに生え茂り、谷川の流れは心地よい響きを立てながらさらさらと流れ、鹿や鴨などの鳥も多くいて大変いい所だ”
 
 と。
 
 「父「応神」もこの大変素晴らしい島を視察がてらに行幸しています。だから、私も、今度、行幸したくなりました」。
 と大后に告げます。それなら大后の反対する理由もありません。
 「どうぞ気を付けられて行っていらっしゃい」となるのです。

 これが天皇の「欺大后」なのです。何も知らない大后は、「まことに気の毒だ」と、お思いになられませんか。そんな夫婦として誠に不誠実な天皇であったことを、此の古事記は、天下に知らしめているのです。それも天皇の自慢話のようにです。現代なら、大問題として、マスメディアに取り上げられるととが確実ですね。

 そこらへんで、今日も又

   ・欺大后(オオキザキヲアザムカシテ)天皇の
                  吉備への道は淡路より伸ぶ

 誠に駄作です。お笑いください。