私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

黒日売は、別れ行く天皇に対してもう一つ歌っています。

2015-08-31 11:17:01 | 日記

 黒日売は、天皇の船出を見送る時、“夜麻登弊爾・・・・和禮和須禮米夜”と、どうぞ、ご無事で、難波にある都まで、安全にお帰りになられますようにと、祈りを込めて歌を歌います。でも、この歌が、別れの哀しさなどが全く感じられないような、誠に、淡々としていて、わざわざ吉備まで行幸して頂いた天皇に対して失礼に当たるのではないかと思ったのでしょうか?????、更に、歌います。

 “夜麻登弊爾 由玖波多賀都麻<ユクハダガツマ> 許母理豆能<コモリズノ> 志多用波閇都都<シタハヘツツ> 由久波多賀都麻”

 と。
 これを現代訳にすると、「倭方に 行くは誰ガ夫 隠り水の 下よ延へつつ 行くは誰ガ妻」となります。


 和禮和須禮米夜

2015-08-30 13:45:06 | 日記

“夜麻登幣邇<ヤマトヘニ> 爾斯布岐阿宣弖<ニシフキアゲテ> 玖毛婆那禮<クモバナレ> 曾岐袁理登母<ソギオリトモ> 和禮和須禮米夜<ワレワスレメヤ>”

 黒日売が仁徳天皇の政治をしている都へお帰りになる時に歌った歌です。
 
 「夜麻登幣<ヤマトヘ>」は「倭方」です。当時、仁徳天皇が都と定めていたのは「難波」だったのですが、そこは吉備から見ると、西に位置しているので、そこを「倭方面」へということで、<ヤマトヘニ>として、黒日売は歌ったのです。
 「爾斯」は、先に、説明した「西風」です。
 「布岐阿宣弖<フキアゲテ>」は読んで字の如しです。「吹き上げて」です。「上げて」は、この場合は「登る」という意味です。「都の方に吹いている」というぐらいの意味になるのではと思います。解釈によっては、此の「上げて」を激しく吹く様子だとする人もいるようですが、私は、「丁度、頃よい都へ帰られるのに、適当な穏やかな西風が吹い、天皇が無事に都へお帰りになる。安心だ」と、いう安堵の心が黒日売にあった為に使われた言葉ではないかと思うのですが???船が遭難しそうではないにしても、そんな激し西風が吹いているなら、瀬戸内の海を知り尽くしている吉備海部直である黒日売の父親は船出なんか、決して、させることはなかったと思われるのです。
 玖毛婆那禮<クモバナレ>は、空の雲が散り散りになって、曾岐袁理登母<ソギオリトモ> 離れ遠ざかっていることよ、です。この散り散りになって飛んでいく雲のように、無常にも、私と天皇を散り散りに引き離してしまっておることよぐらいに解釈しております。
 このままの穏やかな航海を黒日売は祝りつつ、続けて、「和禮和須禮米夜<ワレワスレメヤ>」、と歌っております。天皇と私が、この吉備で、ほんの暫らくではあったのですが、楽しい時を一緒に過ごしたことは、決して、忘れはしないでしょう。どうか、ご無事でお帰り下さい。お祈りしております。というぐらいの意味ではないかと思います。此の歌かだらと、黒日売は天皇との別れの辛さ、悲しさは、少しも、感じられませんが。どうでしょうか???


吉備における仁徳天皇は???

2015-08-29 17:49:21 | 日記

 恋しい黒日売を尋ねて難波の都から吉備にk行幸された天皇ですが、古事記お記述には吉備での生活を黒日売と摘んだ菘菜の事を「大変楽しかった」としか書かれて、他の事は一切ありません。何日ぐらい山方に滞在したのか、また、誰がどう饗応したのかなど、聊かも、書かれてはおりません。日本書紀に出ている「兄媛」とは随分と違います。
 天皇の御歌“多怒斯久母阿流家迦”で、次は、すぐ、天皇が吉備を去る時の黒日売の歌になっております。

 さて、その歌です。

 ”夜麻登幣邇<ヤマトヘニ> 爾斯布岐阿宣弖<ニシフキアゲテ> 玖毛婆那禮<クモバナレ> 曾岐袁理登母<ソギオリトモ> 和禮和須禮米夜<ワレワスレメヤ>”
  現代語訳は「大和へに 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや」となります。

 余り小難し歌ではありません。黒日売の嬢子らしい思いが込められています。


吉備の夕凪

2015-08-27 11:32:17 | 日記

 昨日、「爾斯<ニシ>」について、どうでもいい様な事をくどくどしく書きましたが、又、今日も、その続きを書きます。興味あるお方はご覧ください。この風について、古代には、西は「爾斯」、東は「比牟賀斯」と書くと云いましたが、では、これ等の風が一つもなく無風状態を「凪」と云います。この凪につて少々>

 私は、10日程前に、余りの暑さの為、そんなことではどうでもいいのですが、ちょっと、実情があって。下手な俳句を捻ならなくてはならなくなりました。余りの暑さに、つい、いい気になって駄句を作ってみました。お笑いください。

 “風鈴の あるかなきかに 吉備は凪ぐ”

 と、捻ってから、ちょっと待てよ、この「凪」とはなんだろうか、その語源は何か、「爾斯」のように説明できないかと、暇を持て余しているものですから、暑いのも忘れて、調べてみました。これが、今の、私のお金がかからない夏の宵の避暑対策です。
 さて、 「凪」とは「和」<ナギ>ではないでしょうか。風の少しも吹かない、風のない状態を云うのです。力の均衡した海風団と山風団がぶつかり、空気の少しも動かない静止した状態をいうのです。真夏の午後5時近くから9時頃までの時間帯がそれに当たります。無風状態で、昼間の暑さが、しばらく続きます。その時が夕飯時と重なり、一層のけだるさが感じられる時なのです。この気だるい暑さが、有名な“吉備の夕凪”なのです。瀬戸内海のど真ん中にある吉備地方のこの凪がそれほど有名なのです。機会がありましたら、一度、どのくらい暑いのかお為にになってください。

 これも吉備の名物の一つです。


台風15号が通り過ぎました。風は、斯<シ>と知<チ>です。

2015-08-26 10:18:34 | 日記

 台風が無事に通り過ぎました。本当に、吉備地方は災害が少ないところです。さて、この台風ですが、少しばかり考えてみました。

 台風を、昔は、「嵐(あらシ)」「飈(つみジ)」等と呼んでいました。この「シ」というのが、「斯」<シ>で、風を意味すろ言葉です。西風<ニシ>東風<ヒンガシ>の<シ>も同じで、「尓斯」「比牟加斯」です。皆さんはご存じだとは思いますが、「科戸<シナト>の風」という言葉があります。風の神様を云うのですが、この場合も、やはり<シ>です。

 では、菅原道真の
   “東風吹かばにほひ寄こせよ・・・”は、どうして、<ヒンガシ>でなく<コチ>なのかという疑問がわいてきます。どうでしょうか。
 例の如く、またまた、小理屈になるのですが、疾風(つむじかぜ)を「はやて」といいますが、この「はやて」は、元々は、<ハヤチ>であったものが<ハヤテ>に転化したものだそうです。この場合も、<チ>は「知」であり、<シ>と同じような働きをして、風の事なのです。この<チ>が、<コチ>即ち、東風が<ヒンガシ>と共に使われるようになったのです。

 さてここに来て分からないことが発生しました。<ヒンガ>斯<シ>は日向<ヒムカ>風です。では、「東」がどうして<コ>なのでしょうかね??。誰かお教へ願えればと思いますが。