私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

倭人伝に日本人と酒が・・・

2018-01-31 17:29:51 | 日記

 「魏誌倭人伝」にある{お酒好きの日本人}ですが、このお酒は、それより以前の黍や野葡萄の実などから作られたものとは違って、米から作られたお酒である事がはっきりする資料を私は持っております。天保15年(1845年)に出版された

            ”日本二千年袖鑒”

という本です。
                  

 此の中に
            「人王十六代  酒を造る  千五百七十二年ヨリ」  

 と書かれてあります。十六代とは応神天皇の時代で、天保15年から見て1572年も前のAD270年ごろになります。この頃は、既に、日本に於いて盛んに米作りが行われていた弥生時代の後期に当たりますので、お酒も純米酒が作られたのではないでしょうか。

 なお、この270年頃は、「倭人伝」によりますと卑弥呼の時代ですから、応神天皇の時代とは聊かその時代に差異があるのですが???どうでしょうか       


お酒って何時頃から日本に???

2018-01-31 15:54:14 | 日記

  須瀬理毘売が差し出した盃を受け取って、二人は永遠の愛を誓う「ウキユヒ」をします。総て約束事をしっかりと固めるために盃にお酒を入れ飲み交わす儀式を「ウキユヒ」と言ったのです。此の時に使ったお酒は、現在のようなお米から作られたものでしょうか???此の二人が、盃を交わしたのはオホクニヌシの時代です。神武天皇より、まだ数代も前の時代の話です。ちなみに、此の神武天皇が生まれた年は、一説によりますと、BC712年だと言われておりますが、それを考えると、お米が作られだしたのが弥生時代とされていますので、この神武天皇が生まれたのは縄文時代には米などあるはずがなく、米から醸造されたお酒ではなかったのかとも思われrのですが。どうでしょう????野ブドウや黍などからできていたお酒だったのかもしれませんね。

 なお、予断事ですが、最古の日本に酒があったと記されているものと云えば、中国の「魏誌倭人伝」を上げなくてはなりません。この本によりますと、日本人の生活習慣として

                   ”喪主哭泣他人就歌舞飲酒”

 と書かれてありり、「葬儀の時、喪主はわいわいと声を上げて泣き、参列している人々は踊ったり歌を歌ったりしながらお酒を飲んでいる」という意味です。更に

                   ”人性嗜酒”

 とも書かれており。「人々は大変な酒好きだ」ったということが分かります。
 なお、此の魏誌倭人伝に出てくる卑弥呼が使いを魏の国に遣わしたのは、AD239年の事だとされていますので、此処に出てくるお酒はお米から作られたものではないかと思いますが。兎に角、いつの時代からかは不明ですが、酒が日本人の生活の中で欠かすことができない物になっていたと言う事が分かります。 そんな当時の人々の生活習慣として、この「オホクニヲとその妻の物語」によって云い表されているのです。

 此れも、又又余残事ですが、あのスサノヲが大蛇を退治した時のお酒は何から出来ていたのでしょうか。オホクニの父がスサノヲですから余計に話が複雑になってきます。日本中どこにも、出雲にもです、当然、当時は米は作られておらず、従って、酒など造られるはずがなく、だから、大蛇退治は出雲での話ではいとする人もいるようですが????
 では、どこのお酒????それを吉備の国の黍から作られたのだ、だから、オロチ退治の話は黍の国の話だとする人も江戸時代にいたようです。これについて宣長はきっぱりと否定していますが。でも、魏誌倭人伝の「お酒」はお米からできていた物に間違いはありません。念のために。


“宇岐由比<ウキユヒ>”

2018-01-30 08:53:15 | 日記

 ヒメがオホクニに盃を差し出します。そこに盛られたいっぱいのお酒をオホクニは一息に飲み干します。これで二人の行く末は「何をか語らん、めでたしめでたし」でおわるのが小説の常道手段ですが、古事記は、それでも、まだまだ、この二人の行く末が、人生そのものを語るようにどのような紆余曲折を辿るか分からないかのごとくに、次のような文を付けたしております。

                 “宇岐由比<ウキユヒ>”

 です。
 広辞苑には「盞結(うきゆい)で、酒杯を取り交わして誓約すること」とあり、宣長は

 「女神男神が互いに、御盞をさし交て、今よりの長<トコシナヘ>に心かわらじと、結固め賜ふ契を云なり」

 と説明がしてあります。
 永遠の愛を誓う合う儀式です、そのための盃でもあったのです。このように見てきますと、「さかずき」を交わすと云うことは洋の東西を問わずお互いを結びつけるための仲介の役目をしたものだったのです。大変に、人の世にはなくてはならない大切な神にも似た重要な必需品の一つだったことが分かります。
 別れの盃、再会の盃、和合の盃(仲直りや友情を確かめ合う)、縁結びの盃、更に、ここにあげた盞結の盃など 沢山のお酒の盃が2000年以上の歴史のある事が分かります。


今朝の我が家での小さな騒動?????

2018-01-29 12:18:50 | 日記

 今日の朝刊に

           ”この国に安倍の一強つづくごとわが家に妻の一強つづく”(久野茂樹)

 の歌が出ておりました。遅い老夫婦二たりの朝食を済まし、私は朝刊の読んでいました。朝日歌壇の歌もごく自然に平生どうり読んでいたとは思うのですが、家内に言わせると、「ニヤニヤしながらさも我が意を得たよう読んでいた」と。朝食の後かたずけをしながら

 「なにがおもしろいのですか、そんなににやにやして・・・」
 「ふん、何でもないよ?どうした、何かあった???」
 「そんなに面白い記事が出ているのなら、私にも見せて・・・」

 これから、どんな我が家の朝の小さな騒動が起ったと思われますか???ご想像に任せます


わたしのジャズと云えば

2018-01-28 12:10:20 | 日記

 もう60年も前の話になるのですが、丁度、大学生の時代です。当時、ジュデイー・ガーランドやアームストロング等の歌手がアメリカで人気を博していた時代です。でも、岡山の、それも山ん中育ちの一級の田舎者ですから、「ジャズじゃ」「タンゴだ」「シャンソンだ」という外国の歌には全く興味がわきませんでした。日本の歌謡曲が、特に、美空ひばりが好きでした。ある時、友達にそれを云うと、異口同音に

            「それでもお前は大学生だろう、よくもそんなつまらん歌が好きになれるのだんあ。おおバカな田舎もんだなあ」

 と、随分と卑下されました。それ以降は「ひばり」と云う名は、仲間の間では、決して、口にしないことに決めておりました。でも、「ひばり」は好きで、ある時などは、わざわざ、日比谷公会堂に「ひばり」の歌を聴きに行った事もありました。友達との会話の中では、そのようなことは、決して、口にはしませんでした。でも、本からの知識だけで、「ジャズ」の話で、聞いたこともない歌を知ったかぶりしながら友達と会話していたことが思い出されます。「デキシー」だとか「スイング」だとか「モダン」だとかという言葉だけでです。

 これが、我が青春時代の「ジャズ」の思い出です。