盃ですが、もう少し横道へ・・・
と云うのは、何時頃から始まったのかは知りませんが日本では古くから「盃を交わす」と云う言葉があります。旅立ちの時、それが今生の別れになるかもしれない沢山の危険がその道中には存在していたのです。だから、旅立ちの前には、お互いのそれまでの親交に酒を飲み交わしてから旅立ったのです。その起源がこのオホクニとセスリヒメとの別れからではないでしょうか。そんな事を思いながら、また、私の持っている盃をお見せします。金製と銀製の盃です。
盃ですが、もう少し横道へ・・・
と云うのは、何時頃から始まったのかは知りませんが日本では古くから「盃を交わす」と云う言葉があります。旅立ちの時、それが今生の別れになるかもしれない沢山の危険がその道中には存在していたのです。だから、旅立ちの前には、お互いのそれまでの親交に酒を飲み交わしてから旅立ったのです。その起源がこのオホクニとセスリヒメとの別れからではないでしょうか。そんな事を思いながら、また、私の持っている盃をお見せします。金製と銀製の盃です。
「さかずき」について、私の持っている「坏」と「杯」をご紹介してきましたが、序でに、「盃」を見ていただきます。『もう、そげえなもんは いらん。みとおも ねえ』と云われること目に見えていますが・・・・・・・・・。
これも、何処で何時造られたものかは不明です。九谷ではないと思いますが???非常に薄手の金と淡い彩色が施されてた優雅な小品です。
あまりアクセス数の順位は気にせずに投稿していたのですが、昨日の「大御酒坏」ですが
久しぶりに、5000台に成りました。「そこで、柳の下のドジョウを・・・」と、云う訳ではないのですが酒坏<サカズキ>について、少々又、私の自慢物をお見せします。<サカズキ>と云えば、今では、「セスリヒメ」が「オホクニ」に差し出した「坏」ではなく、『杯』や『盃』が使われています。
その「杯」ですが,漆と金箔で彩られた数枚の杯を私は持っております。其の美しさをご覧ください。まず
これは、今上陛下の御生誕の記念として国民に賜った記念杯(径3寸)です。これは沢山全国にはあると思われますが????次は
左上の杯は径が7寸5分の大杯です。高級武士階級の人の婚礼時にでも使ったものではないかと思っておりますが、何処何時制作されたものか不明です。越前金沢辺りのものではないかと思っておるのですが???
オホクニの「許遠婆<オコバ」と云う言葉を聞いてスセリヒメは、その場にじっと立ち止まること「不能ず」です。その逸る心は、なぜか分からないのですが、そこに置いていたであろうお酒を取り出して、なみなみと大坏に注いで、大急ぎで、今にも馬に乗り、出発しそうにしている夫「オホクニ」に差し出しながら云います。此の時きスセリヒメがオホクニに差し出した坏が
”大御酒坏<オホミサカズキ>”
です。
この時に差しだした「ミさかずき」は「盃」でも「杯」でもありません。素焼きの「大坏」です。その時代に、一般に、神に捧げるために使っていただろうと思えるようなきれいな「大御酒坏<オホミサカズキ>」????を私は持っています。今で言う『猪口』ではありません。大です。口の径は8cmほどの大きさです。写真でどうぞ。
此の「坏」は、5世紀終わりごろの、近畿地方のある古墳から出土したと云われている「坏」です。だから、あのヒメが差し出した「坏」ではありませんが、おそらくこんな坏ではなかったと思ってお見せする次第です。また、この坏には珍しいのですが線刻の絵柄も画かれております。同時期に作られたあまり上級者用ではない坏もおみせしますので比べてみて下さい。なお、この時代の土器は須惠器と呼ばれ、彩色されていない素焼きの土器が使われていました。色柄付けの土器の出現は8世紀になってからだといわれます。
次に、此の土器の側面に付いている絵模様の線刻も見て下さい。丁寧な手作業が伺われます。当時の人の美的感覚が偲ばれますよね。どうでしょうか????
ミカンか何かの種が庭にぽつんと芽を出しました。もう50年も前のことです。近所に立派な柚の木があり、毎年たわわにあの黄色の実を付けています。どうしてもその柚の実をこの小さなん木に受けさせてみたいと考え、早速、本屋で継ぎ木の仕方の本を求めました。その本に従って生まれて初めての接ぎ木とやらを試みました。運よくどうにかその接ぎ木が成長して、若芽が芽を吹きました。其の木が何年たったころからでしょうか??もう10年近くはたっていた頃ではないかと思うのですが。何とかは忘れた頃に・・と云う言葉の通り、ある年に数個の柚の実が、それも真黄色な実を付けます。それ以来もう4,50年は経過していると思うのですが未だに毎年たわわに実を付けております。それを毎年、今年もです。採ってきて。冬至の日の柚湯にしております。今年もその実を4つばかり湯船に入れて、私の冬至の楽しみにしました。