私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

神功皇后の髪型

2016-11-30 08:45:26 | 日記

 ここで又、話がとんでもない方向に飛んでいきます。当時(卑弥呼の時代です)の女性の髪型ですが写真を見てください。

              

 

 どうでしょうか???大方は美しい黒髪を肩の辺りでくるりと結びあげていたようです平安時代のように長い髪を引きずる様にして長く垂らした髪型ではありません。

 一方、男性はと言いますと、亦、写真を見てください。

        

 どうしてこんな写真を???と、お思いでしょうが、それはまた明日にでも・・・


二万の兵力が吉備国から

2016-11-29 10:25:14 | 日記

 雷で大岩を炸裂させて「裂田溝<サクダノウナデ>」が出来あがり、愈々、神田での新穀もでき、新羅を討つ準備にとりかかります。
 そのためには、先ず、兵力の増強が必要です。筑紫の国だけではそれを補うことはできません、当然、当時の強国「吉備国」へもその要請がきます。その時、吉備の国からは二万人の兵力が集められたと言い伝えが残っております。孝霊天皇の皇子「若日子建吉備津彦」がその祖であると伝えられている「下道郡」辺りから集められたのです。この話が、本当かどうかは疑わしいのですが、「吉備国」は、当時、それだけの大和と肩を並べるだけの強大なる勢力を保持しており、此の国を除外しての朝鮮征伐など、海外派兵など、とても考えられない一大国家行事だったのです。

  その言い伝えとして、現在、倉敷市真備町箭田辺りから兵隊が集められたのでしょうか、その時の名残りとして『二万<ニマ>』という地名が残っております。この頃は、まだ、吉備と大和は蜜月の関係が保たれていた時代だったのでしょうが、その後、百五十年後ぐらい経過して、天皇で言いますとこの神功皇后の後、「応神」-「仁徳」ー「履中」-「反正」-「允恭」-「安康」-「雄略」と続いて、この雄略の時代になってから、吉備国の勢力に衰えが、天皇中心の中央集権の時代の中に溶け込んでしまい「吉備」という名が次第に歴史の中から消えて行ってしまったのです。この時には、まだ、造山古墳は作られてはません、念のために。

 なお、これも蛇足になるのですがこの神功皇后は「古事記」では天皇ではありませんが、日本書紀では、れっきとした、第十五代天皇に位置ずけられております。


「裂田溝」

2016-11-28 17:37:07 | 日記

 武内宿禰の不思議な神力で雷を呼び、その力で、さしもの大岩も吹っ飛び、無事に溝が完成し那珂川の水を神田まで通すことが出来ました。その雷の力によって出来上がった溝を人々は、「雷が落ちてその炸裂でできた神田まで通じつ溝」と言う意味の

                       “裂田溝<サクタノウナデ>”

 と呼んだのですが、この溝は、現在、福岡県筑紫郡那珂川町に、実際に、あるのだそうです。一度、来年の春にでも、訪ねたいと思っております。なお、この「溝」ですが、「みぞ」ではなく「うなで」と読ませております。それについても、多くの人により、そう呼ばれた理由が語られているのだとか・・・・

 現在、この溝に沿って12kmほどの遊歩道も作られており、吉野ヶ里遺跡と一緒に、是非、見学したいものです。


「裂田溝」

2016-11-28 17:37:07 | 日記

 武内宿禰の不思議な神力で雷を呼び、その力で、さしもの大岩も吹っ飛び、無事に溝が完成し那珂川の水を神田まで通すことが出来ました。その雷の力によって出来上がった溝を人々は、「雷が落ちてその炸裂でできた神田まで通じつ溝」と言う意味の

                       “裂田溝<サクタノウナデ>”

 と呼んだのですが、この溝は、現在、福岡県筑紫郡那珂川町に、実際に、あるのだそうです。一度、来年の春にでも、訪ねたいと思っております。なお、この「溝」ですが、「みぞ」ではなく「うなで」と読ませております。それについても、多くの人により、そう呼ばれた理由が語られているのだとか・・・・

 現在、この溝に沿って12kmほどの遊歩道も作られており、吉野ヶ里遺跡と一緒に、是非、見学したいものです。


神田を定める

2016-11-26 15:35:02 | 日記

 神功皇后が肥前国「玉島里<タマシマノサト>」の小川で魚釣りをして、細かい鱗魚(アユ)を釣りあげられます。天にまします神のお許しが下りたので、早速、西の国(新羅)を討とうとされます。まず、この戦いの戦勝祈願のため、その土地の特別に選ばれた田で出来たお米を神祗に捧げなければなりません。その田が「神田」なのです。どのようにして、その神田を決めたのかは何も書紀には書かれておりませんが、古代社会の大変興味ある神事として、平安の時代に行われていた制度が記録としてありますが、それについて少々説明してみます 

 それは平安の世になってからのことです(奈良に都があった時もそうだったのかもしれませんが??)。新しく天皇になった場合にとり行われる、天にまします神々に自分が天皇になったと言う詔を高らかに宣する一大行事である「大嘗会<ダイジョウエ>」に引き継がれます。この時、神に捧げるお米を作る田を、特別に「主基<シュキ>」「悠紀<ユウキ>」と呼んでおります。山城国(京都)の西では「丹波国」と「備中国」の二国が「主基」として、東は「近江」が「悠紀」として選ばれて、大嘗会に捧げられる「神米」が作られております。(毎回その場所の選定に当たっては鹿の骨を焼いてできる線により場所を決めていると言われております)

 その西国の「主基」として、度々、選ばれたのが、我が町「板倉」です。「主基」に選定されると、毎回、その地方を読みこんだ和歌や絵図が作られたのだそうです。
 あの古今集にある

       “真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ”

 もそうです。仁明天皇の大嘗会が行われた天長十年の事でした。亦、新古今集の

      “常盤なる 吉備の中山 おしなべて 千歳の松の 深き色かな”

 も、村上天皇の天慶九年の大嘗会の時に作られた和歌です。その他、沢山の和歌が主基選定に伴い読まれた歌だとして、この地方に言い伝えられております。有木も鼓山も板倉橋も・・・・・。