私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「世に日々に死る人よりも、生るゝが多かるは、今此の 御言に由れり・・・・」

2016-12-31 10:47:06 | 日記

 本居宣長をして、その著書、「古事記伝」で、「世に日々に死る人よりも、生るゝが多かるは、今此の 御言に由れり・・・・」と言わしめたことですが、奇しくも、昨日の新聞に「2015年人口動態」と言う記事が掲載されていました。それによると、平成27年度の岡山県の人口の自然増減は、生出者数と死亡者数を比較すると

                 出生者数(15599人)-死亡者数(21525人)=-5926人

 であったと報告されました。

 さて、この死者数が出生者数を追い越したと言うことに、今、黄泉の国にいるイザナミは如何なる思いで見ておられることでしょうかね。

  「どうでしょうね!!!!我が愛しの夫イザナギよ。私の思う壺に嵌ってしまったでしょう。「必ず」なんて強がりなことをおっしゃいましたが、これをどう見給うか。オホホホホ」

 と、闇の国からほくそ笑んでいらっしゃるのではないかと思うのですが???完全に妻であるイザナミの二千年以上の歳月を費やした大逆転の勝利だと思われますが????。「女性は豪し」とは、我が国開闢以来から分かっていたのでしょうかね。

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、昨日書き忘れたのですが、そのイザナギガイザナミに云い伝えた言葉ですが

                “一日必千五百人生也”

 ですが、これを、「人生也<ヒト ナモ ウマレル>」と、読ましているのですが、この「ナモ」とは、今の「なむ」で、言葉を強める時に使う助動詞です。伊勢物語にある

      「その人、かたちより心【なむ】まさりたりける」

 と同じ使い方だと、宣長は説明しております。これも念のために。

 この「ナモ」と強く云い切ったイザナギの言葉が、今では空しく古事記の中で響き渡っているように思われて仕方ありませんが。どうでしょうか????

 

 これで今年の締めくくりにします。来年<ナモ>よい年でありますようお祈りいたしております。


「イザナギよ、どうしてくれるんですか」????

2016-12-30 10:57:24 | 日記

 もうこれで「黄泉の国」でのイザナミとイザナギの夫婦喧嘩については終わりにと思ったのですが、意外と、この項に共鳴してくださるお方がいるようですので、もう少し、此の二人の争いについて、どうでもよい事のようですが、書かしていただきますのでご了承を!!!

 さて、イザナミがイザナギに云います。

                        “汝国之人草一日絞殺千頭”

 と。
 先に説明したように、イザナミは「人」ではなく「頭」と云い放ちます。それだけ、イザナギの住む顕国<ウツシクニ>を「・・・憎けりゃ袈裟まで憎い」の例でしょうか、徹底的に、イザナギの住む国を卑下した言い方をしております。それに対してイザナギは男性です(おっと、これは女性差別になるかな???)。何処までの冷静に対応して、

          “吾は一日に千五百の産屋<ウブヤ>を立てて、是持<ココヲモチテ>・・・一日、必ず、千五百人生也<イチホ ヒトナモ ウマセル>”

と、堂々と「頭」ではなく、「人を生ませる」と宣言しています云います。

 なお、この事について古事記伝では、

              “死<シニ>”

 は、「過去<スギイニ>で、「スギ」が「シ」とつづまり「シニ」になり、「シヌル」と変化したもので、この世の総ての「死」は、黄泉のイザナミの「御所為<ミシワザ>」なのです。それに対して

             “生<ウマル>”

 は「被∨産<ウマル>」で、人がこの世の中に生まれ出るということは、総て、この時のイザナギの願によってなされたことであると説明しております。

 なお、この中で本居宣長は言っております。

    「世に日々に死る人よりも、生るゝが多かるは、今此の 御言に由れり・・・・」

 それが近年になって「その通りですね」と言えなくなってきました。死ぬ人より生まれる人が少なくなています。
                「イザナギさんよ。どうしてくれるんですか 」
 と、聞いてみたい気もしているこの頃です。


“一日絞殺千頭”

2016-12-29 11:37:15 | 日記

 今では憎くてたまらない我が夫「イザナギ」に完全に逃げら、その上、黄泉との国堺に千引石を据えられて、もう黄泉国から顕国<ウツシクニ>に戻ることは決してかないません。どうすることもできません。仕方ないので、その仕返しとしてイザナミは声で伝えます。
 「一日に貴方の国の人間をを千頭殺しますよ」
 と。大石を越えてイザナミの声が上の方から降るように伝わってきます。もう、イザナギは黄泉国の恐ろしい鬼たちから追われることもありません。ゆっくりと、その苛立つイザナミの声を聞いていました。その声が終わって暫らくして、やおらイザナギは、大石の向こうにいるだろうイザニミに向かって詔います。

          “愛我那邇妹命<ウツクシキアガ ナニモ ノミコト>”

 と呼びかけています。それは先にイザンミが

         ”愛我那勢命<ウツクシキアガ ナセ ノミコト>”

 と、呼びかけたことにたいする返礼の言葉で、「私のいとしい妻よ」ぐらいの意味があります。那は 「汝」で自分で、「勢」は兄、邇妹は妹です。

 なお、私が映画監督なら、此のたった5、6字の言い回しについて、大変難しい注文をつけたいのですが。端から人を身下げた疎んずるような声ではありません。と言っても、心の底から「あなたを愛していますよ」と言う声ではありまん。ゆったりと二人の過去の生活を思い出しながら、一語一語ゆっくりと間を置くような言い方ではないかなと思うのですが。なかなか難しい云いまわしをしなくてはならない言葉です。

 そのイザナミが悔し紛れに言います
 「あなたの国の人を一日千人殺しますよ。」
 その憎々しげな恨めしそうな言葉をきいたイザナギもすぐさま言葉を返します。
 「あなたが千人殺すならば。私は一日に千五百の人を生みますよ」 
 と。

 これで黄泉の国での出来事は総て終り、、無事にイザナギは「葦原中国」に帰る事が出来たのです。


“為如此者”

2016-12-28 08:00:20 | 日記

 「大変愛していた我が君よ」と言ってから、イザナミは暫らく間を置いて、今度は、声を荒げるようにして、空を仰ぎながら言います。大石を挟んでの対話です。しかも、今はかっては愛しの君だった夫であるイザナギに対して激しい憎悪の感情で物を云っているのですから当り前です。次の言葉です。

                    “為如此者<カクシタマハバ>”

 「そのようなことをおっしゃるなら」(石を引塞て、事戸<コトド>を渡されたこと)私はその報復として

                    “汝国之人草一日絞殺千頭”

 すると申されたのです。「絞殺」、刀か何かで切り殺すのではなく、首を絞めて殺すことです。これについて宣長は、
 「神様が人を殺す場合は、その身に傷を付けずにきれいな生まれたままの体でなされなくてはならないから、そのためには首を絞めて殺さなくてはならない」
 と説明があります。だから、イザナミも、汝の国の人を一日に千頭「絞殺」<クビリコロサナ>と“もうしたまひし”です。この「千頭」ですが、黄泉の国に入ると、誰もが皆、「獣」なみに扱われ、「人」としては存在せず、「頭」として扱われていたのではないでしょうか???なお、この「汝国<ミマシノクニ>と言うのは、イザナミが、自分が生んだ国の事ですが、その国さへ、イザナギが住める国として、憎くて憎くてたまらなかったのでしょうかね???これについて宣長は
 「生死の隔たりを思へば、甚<イト>も悲哀<カナシ>き御言<ミコト>にざりける」
 とあり、死別することは、今まであったことを総てを引き裂くことで、このような結果をもたらす、誠に相哀れむべき事だと述べているのです。


千引石

2016-12-27 16:38:26 | 日記

 黄泉の八雷神や千五百の黄泉軍たちは、桃の実に恐れおののき、一斉に逃げ帰ります。仕方ありませんから、その後、イザナミは一人でイザナギを比良坂まで追い掛けて来ます。その時、イザナギは黄泉の鬼どもに登って見せた大石(千引石<チヒキイワ>)を引きずって比良坂に置きます。黄泉の国への出入り口を塞いで、完全に黄泉国と顕国<ウツシクニ>を分けてしまいます。そこへ、イザナミがやってきて、その石を挟んでこの二人は対峙します。
 その時、千引石を挟んで、夫であるイザナギはイザナミに

                “度事戸<コトドヲワタス>”


 古事記伝には、「度」は「申し渡す」の意で、「事戸」については、「事解事<コトトケゴト>」が詰まって出来た言葉で有り、「夫婦同室に住しが、離れて別戸<コトト>に渡り行く」意だと説明が有ります。要するに、「これを境に夫婦の縁を切る」、即ち、三行半をイザナギがイザナミに突きつけたのです。

 でも、イザナミは、その石ため、にっくき夫であるイザナギは姿は見えず、何もできません。悔しくて悔しくてなりません。しかし、女性です。暴言を吐くわけではありません。やおら、言葉優しく、その怒りを押し殺すように、

               “愛我那勢命<ウツクシキ アガ ナセノミコト>”

 と云います。この辺りの文の構成の巧さと云ったら何に例えたらいいのでしょうか。古事記を読む時、私の一番好きな場面です

 “愛我那勢命”と云う声が、周りは何も見えない、しかも、大きな石を声だけが済んだ黎明の風になって飛び越えて聞こえてくるのです。その声を聞いたイザナギの心情はいかばかりだっとことでしょうか??・それについては何も古事記は、残念ですが、伝えていません。私だったら、恐ろしさも何もかも忘れ、大石を飛び越えて、イザナミを我が胸に抱きこむのではと思うのですが。あなたなら?????