吉備ノ津に上陸されてから、すぐさま兄媛のいる「葉田葦守宮」に急ぎます。その時、天皇を出迎えたのが兄媛の兄の
“御友別<ミトモワケ>
です。
この人について、岡山大学名誉教授で、吉備津でお生まれになった藤井 俊先生の著書「吉備津神社」(岡山文庫)によるうと、日本武尊の東征の時の副將「吉備武彦」のお子様だ、とあります。
まあ、その時の兄媛の年齢だすが、詳しく計算してみると、既に、相当な年齢になっていると思われますが、「日本書紀」という日本の歴史書ですから、そこに書かれていることをそのままに読んでおきたいと思います。
念のために、その時間的な経緯について書いてみますと、何せ、吉備を制圧するために吉備津彦命が来たのは7代考霊天皇の時です。吉備津彦命はその弟「若建吉備津日子命」を伴って来ています。その時代から考えてみますと、応神は16代天皇ですから、その間に9代の天皇が即位されていますから500年ぐらいは経過している計算になりますから。すると、その時、兄媛はどのくらいの歳になっているか推定できるはずですよね???
そんなことはどうでもいいことなのですが、兎に角、応神天皇は「逢いたさ見たさ」の強烈な情が、たった五日間という短い間に吉備まで行幸されております。驚くべき早さです。その間に淡路島や小豆島に立ち寄られしながらにです。
なお、これも余残事ですが、日本書紀の解説書の中には「御友別は兄媛の父親」としているほんもありますが、それは誤りです。
“御友別<ミトモワケ>
です。
この人について、岡山大学名誉教授で、吉備津でお生まれになった藤井 俊先生の著書「吉備津神社」(岡山文庫)によるうと、日本武尊の東征の時の副將「吉備武彦」のお子様だ、とあります。
まあ、その時の兄媛の年齢だすが、詳しく計算してみると、既に、相当な年齢になっていると思われますが、「日本書紀」という日本の歴史書ですから、そこに書かれていることをそのままに読んでおきたいと思います。
念のために、その時間的な経緯について書いてみますと、何せ、吉備を制圧するために吉備津彦命が来たのは7代考霊天皇の時です。吉備津彦命はその弟「若建吉備津日子命」を伴って来ています。その時代から考えてみますと、応神は16代天皇ですから、その間に9代の天皇が即位されていますから500年ぐらいは経過している計算になりますから。すると、その時、兄媛はどのくらいの歳になっているか推定できるはずですよね???
そんなことはどうでもいいことなのですが、兎に角、応神天皇は「逢いたさ見たさ」の強烈な情が、たった五日間という短い間に吉備まで行幸されております。驚くべき早さです。その間に淡路島や小豆島に立ち寄られしながらにです。
なお、これも余残事ですが、日本書紀の解説書の中には「御友別は兄媛の父親」としているほんもありますが、それは誤りです。
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