なお、この事については、芭蕉の奥州の旅に同行した曾良の旅日記を見ると分かります。芭蕉が、この象潟に立ち寄ったのは六月十五日です。そこには
“象潟ヘ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方。番諸裏判済。”
とあるだけで、
“闇中を莫作して”
”蜑の苫屋に膝を入て“
の文などを伺わせるような言葉は、そこには何一つ、見つかりません。これも芭蕉独特の旅まくら日記です。そこら辺りを合わせ見ながら読んでいけば、なお、一層の「奥の細道」への興味が沸き出で立つように感じられます。日本の名著の一つに上げられるのも不思議ではありません。
なお、この曾良が象潟で詠んだ句が芭蕉の句と並べられて記されております。
“象潟や料理何食くふ神祭”
この句を読んでも、芭蕉たちが膝を入れた苫屋は、決して、「いぶせき」な場所ではなく、食べ物も豊富に並んでいる裕福な家ではなかったかと思われるのです。
もう一つ、曾良のこの日記から考えることができるのは、、「象潟に方寸を責」を読んで、ここまでが芭蕉の奥州旅行の目的だったのではないかと書いたのですが、曾良のこれからは、そのような芭蕉の思いなど、不思議ですが、微塵も感じられないように思われるのですが?????
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