今、私は吉備の国の歴史について、日本書紀・古事記の中から取り出して調べております。先ず兄媛について調べました。彼女については書紀「応神天皇の巻」にだけしかその記述は有りません。古事記になりますと、今度は、一変して「仁徳天皇の巻」に、兄媛ではなくて、吉備国の絶世の美女「黒媛」が登場します。
この兄媛と黒姫に共通した点は二人とも、男性なら誰もが振り向いて見るという天下の絶世の美女だったのです。古代においてはと云うより、天地が開闢してこのかた、美女誕生の地でもあったのです。
その例として、古くは、吉備津彦命の奥方である「百田弓矢比売命<モモタユミヤヒネノミコト>」を始め、日本武尊の妃「吉備穴戸武姫」・景行天皇の后になられた播磨稲日大郎姫など錚々たる日本を代表するような女性の名を挙げることができます。歴史的に、これほど多くの女性の名が瞬時に出てくるような地域は、吉備の国を置いて他にないと思われるほど多くの女性が見受けられます。
なお、日本武尊は彼が18歳の時に九州の熊襲征伐に遠征されたことがあります、その時、熊襲の長の首をはねたのは女装してその寝室に入った日本武尊に他ならないのです。それは彼が女装して熊襲の長が開いた宴席に出て、その余りにも美しい姿に感激した熊襲が、彼を自分の寝室に連れ込んだために、尊はその首を易々とはねることができたのです。
この兄媛と黒姫に共通した点は二人とも、男性なら誰もが振り向いて見るという天下の絶世の美女だったのです。古代においてはと云うより、天地が開闢してこのかた、美女誕生の地でもあったのです。
その例として、古くは、吉備津彦命の奥方である「百田弓矢比売命<モモタユミヤヒネノミコト>」を始め、日本武尊の妃「吉備穴戸武姫」・景行天皇の后になられた播磨稲日大郎姫など錚々たる日本を代表するような女性の名を挙げることができます。歴史的に、これほど多くの女性の名が瞬時に出てくるような地域は、吉備の国を置いて他にないと思われるほど多くの女性が見受けられます。
なお、日本武尊は彼が18歳の時に九州の熊襲征伐に遠征されたことがあります、その時、熊襲の長の首をはねたのは女装してその寝室に入った日本武尊に他ならないのです。それは彼が女装して熊襲の長が開いた宴席に出て、その余りにも美しい姿に感激した熊襲が、彼を自分の寝室に連れ込んだために、尊はその首を易々とはねることができたのです。
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