「御巣」が、宣長先生のご説明のように、御膳<ミケ>を炊くための煙抜けの窓を供えた台所であるなら
“底津石根宮柱布斗斯理”
のようなそんなに大きな柱を供えた建物でなくてもいいはずです。どうでしょうか????このオホクニが出雲の国に君臨していた時代は、おそらくBC700ぐらいの時(弥生時代の初め頃)だと思えます。当時、人々が住んでいたのは小さなみすぼらしい「竪穴式住居」です。其の当時の大きな建物といえば、大陸から伝わったばかりの稲を保存するために作られた
<高床式倉庫>
だったはずです。これが何と呼ばれていたかは詳らかでなないのですが、集落の一部に堂々と作られて、あったことは確かです。その証拠を
国立博物館にある国宝の銅鐸に書かれている絵です。右の下にあるのがその倉庫です。
天神御子が、これから“所知<しろしめす>”治める水穂国の人々が納める為に作られた高床式の倉庫のような大きな、蜂の巣のようにいっぱい部屋がある地上から高い所に作られた大変立派な建物と云うのが、「御巣」の本当の意味になるのではと、私は解釈しておりますが。どなたか私の説明に賛同していただけるお人はいないでしょうかね???。殆どの古事記研究者は宣長の説を元にして解説しておられる様です。
“底津石根宮柱布斗斯理”
のようなそんなに大きな柱を供えた建物でなくてもいいはずです。どうでしょうか????このオホクニが出雲の国に君臨していた時代は、おそらくBC700ぐらいの時(弥生時代の初め頃)だと思えます。当時、人々が住んでいたのは小さなみすぼらしい「竪穴式住居」です。其の当時の大きな建物といえば、大陸から伝わったばかりの稲を保存するために作られた
<高床式倉庫>
だったはずです。これが何と呼ばれていたかは詳らかでなないのですが、集落の一部に堂々と作られて、あったことは確かです。その証拠を
国立博物館にある国宝の銅鐸に書かれている絵です。右の下にあるのがその倉庫です。
天神御子が、これから“所知<しろしめす>”治める水穂国の人々が納める為に作られた高床式の倉庫のような大きな、蜂の巣のようにいっぱい部屋がある地上から高い所に作られた大変立派な建物と云うのが、「御巣」の本当の意味になるのではと、私は解釈しておりますが。どなたか私の説明に賛同していただけるお人はいないでしょうかね???。殆どの古事記研究者は宣長の説を元にして解説しておられる様です。
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