捕まえた赤とんぼ空に放しけり
里帰りの楽しみのひとつは甥の子供のちいちゃんと遊ぶこと。4歳になった。保育園がひけてから毎夕方、土手や公園に行くのが日課だった。ある日、ちいちゃんは赤とんぼを捕まえた。いつまでも尻尾を握ってるから、いいかげんに放しなさいと何度言っても嫌だってゆうこときかない。それでちいちゃんを後ろからがっつり抱きしめて離さないと、放してよ放してよともがく。ちいちゃんもいつまでも捕まれていたら嫌でしょ、自由になりたいでしょ、トンボさんだって同じ気持ちだと思うよ、と言うと、トンボを空に放り上げ「トンボさんさようなら」と手を振った。トンボがあんなに高く飛べるんだと思うほど空高く消えていった。
ある日、ちいちゃんはお風呂に入らないと駄々をこねる。ちいちゃん、ちいちゃんの大好きなおかあしゃん(お母さんと言わないでおかあしゃんという)がお仕事で疲れて帰ってきて、ちいちゃんが汗かいた臭い身体で抱きついたらお母さんがっかりすると思うよ。ちいちゃんがキレイキレイになっていい匂いで抱きついたらお母さん、とっても嬉しいと思うよ、というとお風呂に入った。
家を発つ最後の日の夕方、一人で母に会いに行こうとすると、ちいちゃんも一緒に行くと言う。咄嗟に、夕方はね大人の人しか入れないのと言うと、ちいちゃん、前に夕方いったことがあるもんと言い返した。嘘ついてると見抜かれた。最後だから母と一人で会いたいのと何故言わなかったのだろう。
ちいちゃんと遊んでると自分の子供の頃に還る。ちいちゃんはちいちゃんの現実を生き、ちいちゃんの目に映る世界がある。毎日たくさんのこと見て聞いて感じて考えてる。ちいちゃんには4歳なりの良いか悪いかの理性と判断力がある。そしてその世界は柔らかくみずみずしく広がっている。
さて、突然、ガブリエルマルクスの話になるが、絶対的現実は存在しないということはちいちゃんと遊んでてもわかる。ちいちゃんの目に映る現実と私の目に映る現実は同じく映る面もあれば違うく映る面もある。東京を発つ前に、友達とちょこっとガブリエルマルクスの話をしながら、現実とは何ぞやなんて、それが何の役に立つのという話になった。ずーつと彼の説が頭にあって、折にふれいろいろ考えながら、私に役に立ったというか少し自分が変わったなと思えたのは、どの人にもその目に映る現実があり、もし他人の目に映る現実に触れるチャンスがあれば、私に映る現実が豊かになり広がりができるということ。ガブリエルによると、現実とはこれだという絶対的なものはなく、各個体に映る(宇宙人からみた人間ということも含め)現実の総体ということになる。
こちらを発つ前に、夫にガブリエルマスクスについて感動したと話すと別に新しいことでないと相手にされなかった。私なりに簡潔に説明したんだけど例えが悪かった。「彼の説はね一言でいうと、私にとってあなたは生活費を稼ぐ夫だけど、ワニにとっては美味そうな今夜の餌でしかないってことなのよ。」
ちいちゃんが、日本から帰る前に、一緒に遊んで楽しかったと、覚えたてのひらがなでお手紙くれた。ちいちゃんが選んだ靴下をプレゼントしてくれた。熊シャン模様の靴下。はけねーよなーと思ったけれど、この年になると別にいいか、はこう。
里帰りの楽しみのひとつは甥の子供のちいちゃんと遊ぶこと。4歳になった。保育園がひけてから毎夕方、土手や公園に行くのが日課だった。ある日、ちいちゃんは赤とんぼを捕まえた。いつまでも尻尾を握ってるから、いいかげんに放しなさいと何度言っても嫌だってゆうこときかない。それでちいちゃんを後ろからがっつり抱きしめて離さないと、放してよ放してよともがく。ちいちゃんもいつまでも捕まれていたら嫌でしょ、自由になりたいでしょ、トンボさんだって同じ気持ちだと思うよ、と言うと、トンボを空に放り上げ「トンボさんさようなら」と手を振った。トンボがあんなに高く飛べるんだと思うほど空高く消えていった。
ある日、ちいちゃんはお風呂に入らないと駄々をこねる。ちいちゃん、ちいちゃんの大好きなおかあしゃん(お母さんと言わないでおかあしゃんという)がお仕事で疲れて帰ってきて、ちいちゃんが汗かいた臭い身体で抱きついたらお母さんがっかりすると思うよ。ちいちゃんがキレイキレイになっていい匂いで抱きついたらお母さん、とっても嬉しいと思うよ、というとお風呂に入った。
家を発つ最後の日の夕方、一人で母に会いに行こうとすると、ちいちゃんも一緒に行くと言う。咄嗟に、夕方はね大人の人しか入れないのと言うと、ちいちゃん、前に夕方いったことがあるもんと言い返した。嘘ついてると見抜かれた。最後だから母と一人で会いたいのと何故言わなかったのだろう。
ちいちゃんと遊んでると自分の子供の頃に還る。ちいちゃんはちいちゃんの現実を生き、ちいちゃんの目に映る世界がある。毎日たくさんのこと見て聞いて感じて考えてる。ちいちゃんには4歳なりの良いか悪いかの理性と判断力がある。そしてその世界は柔らかくみずみずしく広がっている。
さて、突然、ガブリエルマルクスの話になるが、絶対的現実は存在しないということはちいちゃんと遊んでてもわかる。ちいちゃんの目に映る現実と私の目に映る現実は同じく映る面もあれば違うく映る面もある。東京を発つ前に、友達とちょこっとガブリエルマルクスの話をしながら、現実とは何ぞやなんて、それが何の役に立つのという話になった。ずーつと彼の説が頭にあって、折にふれいろいろ考えながら、私に役に立ったというか少し自分が変わったなと思えたのは、どの人にもその目に映る現実があり、もし他人の目に映る現実に触れるチャンスがあれば、私に映る現実が豊かになり広がりができるということ。ガブリエルによると、現実とはこれだという絶対的なものはなく、各個体に映る(宇宙人からみた人間ということも含め)現実の総体ということになる。
こちらを発つ前に、夫にガブリエルマスクスについて感動したと話すと別に新しいことでないと相手にされなかった。私なりに簡潔に説明したんだけど例えが悪かった。「彼の説はね一言でいうと、私にとってあなたは生活費を稼ぐ夫だけど、ワニにとっては美味そうな今夜の餌でしかないってことなのよ。」
ちいちゃんが、日本から帰る前に、一緒に遊んで楽しかったと、覚えたてのひらがなでお手紙くれた。ちいちゃんが選んだ靴下をプレゼントしてくれた。熊シャン模様の靴下。はけねーよなーと思ったけれど、この年になると別にいいか、はこう。
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