昨日の道新「朝の食卓」より
長沼修氏のエッセイ
筆者の母の祖父は明治8年、北海道最初の屯田兵として16歳で札幌の琴似に
入植した。戊辰戦争に敗れ、薩摩、長州を中心とした官軍に歯向かったとして
仙台南方の故郷を追われ家族とともに北海道に渡ってきた。
ようやくたどり着いた琴似で、会津藩の人たちなどと、苦しい生活が始まった。
2年後の明治10年、西南戦争にこともあろうに琴似と山鼻の屯田兵に出動命令。
屯田兵部隊の上級士官はほとんどが薩摩の出身者。
彼らは西郷どん率いる同郷の人たちとは戦いたくなかったようで掛け声ばかり
実際に戦ったのは屯田兵だけとの話が伝わっている。
そうだったのか・・・初めて知った。
琴似と言えば20代の頃担任していた女性徒の家が屯田兵の子孫だった。
家庭訪問した時にとても古い大きな屋敷でご先祖様の写真が幾つもかけてあり
印象に残っていた。
彼女の名もまだフルネームで憶えている
とても優秀な生徒だったYMさんどうしているかなぁー・・・。
長沼修氏のエッセイ
筆者の母の祖父は明治8年、北海道最初の屯田兵として16歳で札幌の琴似に
入植した。戊辰戦争に敗れ、薩摩、長州を中心とした官軍に歯向かったとして
仙台南方の故郷を追われ家族とともに北海道に渡ってきた。
ようやくたどり着いた琴似で、会津藩の人たちなどと、苦しい生活が始まった。
2年後の明治10年、西南戦争にこともあろうに琴似と山鼻の屯田兵に出動命令。
屯田兵部隊の上級士官はほとんどが薩摩の出身者。
彼らは西郷どん率いる同郷の人たちとは戦いたくなかったようで掛け声ばかり
実際に戦ったのは屯田兵だけとの話が伝わっている。
そうだったのか・・・初めて知った。
琴似と言えば20代の頃担任していた女性徒の家が屯田兵の子孫だった。
家庭訪問した時にとても古い大きな屋敷でご先祖様の写真が幾つもかけてあり
印象に残っていた。
彼女の名もまだフルネームで憶えている
とても優秀な生徒だったYMさんどうしているかなぁー・・・。