本阿弥光悦の名前を知ったのは、吉川英治氏の「宮本武蔵」を学生時代に読んでから。
それから幾星霜が過ぎ、京都に魅せられた私は偶然に光悦寺の存在を知り、その名前に惹かれ、ある日訪れた。
そしてそこは、星の数ほどある京都のお寺の中でも、私の筆頭のお気に入りになり、各季節に数えきれない程、訪れることになるのだ。
千本通を北に車で走り、千本ゑんま堂からさらに北上、佛教大学を越えた辺りから、さらに坂が急になっていく。
『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地である。
本阿弥光悦は、「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わった。
現代でいうならば、マルチアーティストであり、芸術のプロデューサーでもあったのだろう。徳川家康に与えられたこの地に、芸術村を創ることになる。
光悦が没したのちに、この地は寺となり、現在の日蓮宗・光悦寺になっていったとのことである。
京都の有名寺院と言えば、清水寺や金閣寺や龍安寺など。大きな建物・広大な敷地・禅の枯山水など。あちこちで記念写真を撮り、土産物を買い求める。
いかにも一般的に喜ばれる、「京都らしさ」を楽しめる場所が多い。
光悦寺は縦に細長い敷地で(それはそれで京都らしいともいえるが)、間口が狭くて入口がわかりにくい。
しかしまず魅せられるのがその入口から。もみじのトンネルに包まれるように、石畳の細い道を進んでいく。
大徳寺の高桐院にも同じように直線的な入口からの参道があるが、私は光悦寺の方が、遥かに好みだ。
私のここでの撮影回数・枚数は、枚挙に暇がない。どれほど魅せられてシャッターを切ったかわからない。
ここから小さいが良い佇まいの鐘楼を越え、いつも丁寧な応対の入口を通ると、右手に本堂があり光悦翁の座像がある。
ここから右に池を臨みながら木立の中を歩く、季節により、蛙の鳴き声が楽しめる。
直線を抜けると正面に、光悦垣が見え始める。
光悦垣とは光悦翁の考案で、菱目に編んだ垣と、矢来風に菱に組んだ組子の天端を割竹で巻き、玉縁としている。
一般的なものは垣が平面的で、天端の片端が円弧を描いて終わっていますが、光悦寺のものはスケールが違う。
垣自体が非常に大きくて長く、入口から見て、天端は目の高さ位から、徐々に低くなっていくのだ。
さらに根本的に異なるのは、湾曲を描いているということ。
つまり、湾曲を描きながら、徐々に低くなって行く・・・ このバランスが絶妙なのである。
どこまでも続くような錯覚を覚える程に、実際より遥かに長く長く感じられるのだ。
これを設計した光悦翁は、独特の宇宙観すら、持っていたのだと推察する。当時はもちろん、写真とういメディアは無い。
しかしどこからともなく、この空間を写真で表現してみなさいと、問われているような気がしてならない。
ゆえに訪れる度に、さまざまな試行錯誤と写真表現を行うわけだが、これが楽しくて仕方ないのだ。
茶室をいくつも過ぎて、奥まで到着し、せせらぎを聴きながら腰かける。そして鷹峯を間近に臨む。
決して広くは無いが、私にとっては撮影スポットの宝庫であるし、その場に居るだけで、高揚したり落ち着いたり。
せっかく訪れても、何もないじゃないかと、すぐに帰ってしまう方も散見する。それはそれで、いいのだと思う。
でも私にとって光悦寺は、何度訪れようとも決して飽きない、大切な場所なのである。
光悦寺への感謝と思いから、ついつい綴ってしまった。
ここらで、写真の話をしておかなくては(笑)。
でも詳しくは、次回にしたいと思う。
今回の写真は、光悦垣に向かって右脇に、いつも茂って咲く萩のこと。初夏になり、まだ軟らかで可愛い萩が生え始めたのだ。
その優しい佇まいを、光悦垣とともに撮ってみた。
機材は前回同様。X-Pro2 + XF 18mm F2である。