綴子の宿を通過した羽州街道は、その後現在の国道7号と合流し、坊沢(北秋田市坊沢)、前山(北秋田市前山)、今泉(北秋田市今泉)、小繋(二ツ井町小繋)を通り荷上場へと向かいます。(中間の宿場については、ぼんやり走っていた為、通過してしまった。)
「荷上場宿」は今の地名は能代市二ツ井町荷上場です。ここは花輪、大館を通って来た米代川と白神山系を源とする藤琴川が合流する地点でもあった。
古くから舟運の要所として栄え、ここの地名はその歴史に由来している。
米代川のこの地点より少し上流には貯木場もあり、そこで秋田杉の丸太を筏に組み下流の能代まで運んだそうである。
また、荷上場は「きみまち阪」と言う小高い山が米代川の河辺までせり出していて交通の難所でもあった。そのため上流の小繋と荷上場を繋ぐ「一里の渡し」が設けられてあったそうである。ただこの「一里の渡し」も米代川のたびたびの増水や氾濫などにより渡しが出来なくなったりした事もあったようである。その為、川筋のルートを避け、きみまち阪の北側を迂回する山道の街道も設けられていた。次の画像を見ていただきたい。
青色の楕円で囲った羽州街道の表記が見えるであろう。この地図はきみまち阪にある道の駅の案内図である。
きみまち阪あたりで大きく蛇行している米代川を避けるように山側に街道が設けられているのを見ることが出来る。
現在の荷上場を含む二ツ井町はどこにでもある田舎町で当時の面影をしのばせる道並を見つける事は出来なかった。
二ツ井の町を通る道路は現在は県道317号となっていますが二ツ井バイパスが出来るまでは国道7号でした。この県道317号は二ツ井町の切石地区と駒形地区を通過すると、次の宿、飛根(とびね)に向かいます。
飛根(とびね)宿は現在名を二ツ井町富根と言います。国道を離れ、富根の旧道に入ってみました。
富根宿は現在でも羽州街道の雰囲気を色濃く残す道並です。次の写真をご覧下さい。
富根愛宕神社脇の街道です。
この愛宕神社の境内には巨木があり当時の面影を今に残しています。
バイクを留め巨木の陰で一休みしました。かっての旅人たちもこの場所で暑い日差しを避け一休みしたものでしょう。この集落には富根駅がありますがその駅は田舎の無人駅で、とりたてて雰囲気を感じさせる駅舎では在りませんでした。
富根をでた街道は国道7号と合流し東能代方向に走ると鶴形を少し過ぎたあたりで檜山に向かう道の分岐に差し掛かります。
左の道が旧道の羽州街道です。例の道標により知ることが出来ます。道標の左の道を進むと檜山に出、国道をまっすぐ進むと能代市方向です。現在、この檜山へ向かう道は全線が簡易舗装の林道幟山線(のぼりやません)となっています。林道ですので道幅は狭いです。対向車がくれば4輪車では交差するのも難しいところがほとんどです。
約5キロの山道を進むとやがて檜山の集落へと向かう道に出会います。そこには案内板があり付近の地図もあります。
上記左画像の地図でオレンジ色で囲った丸の道が本当の羽州街道であるようです。現在は徒歩以外では通行不能の道となっているとの事です。後日、そこを数年前に徒歩で走破した人に直接話を聞いたところ、ごく普通の山道で山菜取りに行く人ならば簡単に歩けるそうです。
さて、その旧羽州街道と檜山街道との合流点には上記右画像にある道標が建てられていました。この道標は、幟山林道と檜山街道の合流点より西側にありますので、幟山林道が羽州街道であるのはおかしいと思っていた疑問がとけた次第です。
また、この地区には檜山街道松並木と一里塚が保存されています。
松の並木は羽州街道当時の物ではなくその後植えられた物のようですが、中々見事な景観で見るものを当時の旅人の気分にさせるには充分な物でした。石造りの説明表示もあります。
この石碑の向こう側には石を積み重ねた構築物も残っています。街道の土留めとした物の遺物でしょうか。
檜山街道と檜山の歴史については多くの方の言及がありますので、小生は檜山城祉の少々の写真をとり、先を急ぐ事にします。
この檜山街道(イコール羽州街道)を先に進むと、次の宿は豊岡の宿(現在地名は山本郡三種町豊岡)に入りますがそれ以降は次回の続きとします。
次につづく。
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「荷上場宿」は今の地名は能代市二ツ井町荷上場です。ここは花輪、大館を通って来た米代川と白神山系を源とする藤琴川が合流する地点でもあった。
古くから舟運の要所として栄え、ここの地名はその歴史に由来している。
米代川のこの地点より少し上流には貯木場もあり、そこで秋田杉の丸太を筏に組み下流の能代まで運んだそうである。
また、荷上場は「きみまち阪」と言う小高い山が米代川の河辺までせり出していて交通の難所でもあった。そのため上流の小繋と荷上場を繋ぐ「一里の渡し」が設けられてあったそうである。ただこの「一里の渡し」も米代川のたびたびの増水や氾濫などにより渡しが出来なくなったりした事もあったようである。その為、川筋のルートを避け、きみまち阪の北側を迂回する山道の街道も設けられていた。次の画像を見ていただきたい。
青色の楕円で囲った羽州街道の表記が見えるであろう。この地図はきみまち阪にある道の駅の案内図である。
きみまち阪あたりで大きく蛇行している米代川を避けるように山側に街道が設けられているのを見ることが出来る。
現在の荷上場を含む二ツ井町はどこにでもある田舎町で当時の面影をしのばせる道並を見つける事は出来なかった。
二ツ井の町を通る道路は現在は県道317号となっていますが二ツ井バイパスが出来るまでは国道7号でした。この県道317号は二ツ井町の切石地区と駒形地区を通過すると、次の宿、飛根(とびね)に向かいます。
飛根(とびね)宿は現在名を二ツ井町富根と言います。国道を離れ、富根の旧道に入ってみました。
富根宿は現在でも羽州街道の雰囲気を色濃く残す道並です。次の写真をご覧下さい。
富根愛宕神社脇の街道です。
この愛宕神社の境内には巨木があり当時の面影を今に残しています。
バイクを留め巨木の陰で一休みしました。かっての旅人たちもこの場所で暑い日差しを避け一休みしたものでしょう。この集落には富根駅がありますがその駅は田舎の無人駅で、とりたてて雰囲気を感じさせる駅舎では在りませんでした。
富根をでた街道は国道7号と合流し東能代方向に走ると鶴形を少し過ぎたあたりで檜山に向かう道の分岐に差し掛かります。
左の道が旧道の羽州街道です。例の道標により知ることが出来ます。道標の左の道を進むと檜山に出、国道をまっすぐ進むと能代市方向です。現在、この檜山へ向かう道は全線が簡易舗装の林道幟山線(のぼりやません)となっています。林道ですので道幅は狭いです。対向車がくれば4輪車では交差するのも難しいところがほとんどです。
約5キロの山道を進むとやがて檜山の集落へと向かう道に出会います。そこには案内板があり付近の地図もあります。
上記左画像の地図でオレンジ色で囲った丸の道が本当の羽州街道であるようです。現在は徒歩以外では通行不能の道となっているとの事です。後日、そこを数年前に徒歩で走破した人に直接話を聞いたところ、ごく普通の山道で山菜取りに行く人ならば簡単に歩けるそうです。
さて、その旧羽州街道と檜山街道との合流点には上記右画像にある道標が建てられていました。この道標は、幟山林道と檜山街道の合流点より西側にありますので、幟山林道が羽州街道であるのはおかしいと思っていた疑問がとけた次第です。
また、この地区には檜山街道松並木と一里塚が保存されています。
松の並木は羽州街道当時の物ではなくその後植えられた物のようですが、中々見事な景観で見るものを当時の旅人の気分にさせるには充分な物でした。石造りの説明表示もあります。
この石碑の向こう側には石を積み重ねた構築物も残っています。街道の土留めとした物の遺物でしょうか。
檜山街道と檜山の歴史については多くの方の言及がありますので、小生は檜山城祉の少々の写真をとり、先を急ぐ事にします。
この檜山街道(イコール羽州街道)を先に進むと、次の宿は豊岡の宿(現在地名は山本郡三種町豊岡)に入りますがそれ以降は次回の続きとします。
次につづく。
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