京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

清水寺 夜間拝観

2024年12月03日 07時57分00秒 | 日記
 11月25日の最終は、市バスで泉涌寺から清水寺へと移動しました。

清水寺と言えば京都でも一位、二位を争う人気のお寺です。
"ベタ"と言えば"ベタ"な人気スポットですが、僕にとって外せないお寺のひとつです。







山門の左手にある馬駐はスルーしそうなのですが立派な重要文化財です。



まだ陽があるので境内を散策。
「中興堂」とよばれるお堂で清水寺の中興開山大西良慶さまの御霊屋です。

良慶和上は大正3年(1914)奈良・興福寺住職と兼職で約70年に亘って清水寺住職を勤め、明治の神仏分離によって衰退していた清水寺を現在の形に復興した人物です。
また、当時NHKに務められていた山下家の五つ子の名付け親としても知られています。

 中興堂は、1995年(平成7年)、良慶の十三回忌を記念して発願され、2年後の1997年(平成9年)に落慶しています。





この辺りは"鳥辺野"にあたり、境内から発掘された石仏がお祀りされています。

次の写真は塔頭の成就院で庭園は「月の庭」として知られています。
春と秋には一般公開されます。





清水寺の僧侶で勤王の僧として西郷隆盛と行動を共にした月照上人の供養塔です。



西門からの夕暮れの眺めは「西方極楽浄土」の世界観を感じます。





轟門から境内へ。













青い光は観音さまの慈悲の心を表してします。







この素晴らしい光景に感動を覚えるのは日本人だけではないようです。
約9割が外国人の方です。










泉涌寺の紅葉

2024年12月03日 07時54分00秒 | 日記
 11月25は、今熊野観音寺に続いて"御寺"とも呼ばれている泉涌寺を拝観しました。









泉涌寺は大門を入ると参道が下り坂で"下り参道"と呼ばれています。

重層になっているお堂は仏殿(重文)で、その下の写真は浴室です。

丁度、京都古文化保存協会主催でお釈迦さまの歯の舎利を安置している舎利殿が公開されています。



滅多に開かないお堂だけに拝観させて頂きました。







舎利殿は、釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する貴重な霊殿です。

慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移されました。

開山俊芿律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来して祀られたものです。

現在寛喜2年(1230)将来された韋駄天像・月蓋長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されています。
天井に描かれている龍は"鳴き龍"としても知られています。











別料金が必要ですが、次に御座所を拝観しました。

明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失し、明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿をお移しになりました。

この建物は文化15年(1818)に造営されたものです。御殿は西に御車寄があり、これに続く一棟は六室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼んでいます。

ここ御座所庭園の紅葉がまた、素晴らしいのです。
紅色、黄色と綺麗に色づき、常緑の緑色とのコントラストには感動を覚えます。

しかし、ここでも夏の猛暑の影響が大きいのか?いつもの鮮やかさに欠けているように思います。







霊明殿です。

霊明殿は歴代天皇の御尊牌(お位牌)をお把りした場所の通称ですが、泉涌寺の霊明殿は皇室の御崇敬において他に異なるものがあります。

現在の霊明殿は、明治17年に明治天皇の思し召しによって宮内省が再建したもので、重厚な入母屋造り檎皮葺き、外観は辰殿風、すべて尾州槍材で造られた品格ある建築物です。





月輪陵・開山堂です。

霊明殿の東に鎮まる陵墓は月輪陵(つきのわのみさぎ)・後の月輪陵と呼ばれています。

四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれている。
ここに鎮まるかたがたの御葬儀は泉山長老が御導師をお勤め申しあげ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている。

また月陵の背後の山腹には、南に孝明天皇
の後月輪東山陵、北に英照皇太后の後月輪東北陵が築かれている。

泉涌寺が"御寺"と呼ばれている由縁です。



笹屋伊織

この時期、境内ではテントで笹屋伊織さんが出店されています。
毎年?こちらでお菓子を頂き一服します。
お茶の提供が無いのが残念です。





楊貴妃観音堂です。

大門を入って左手奥の堂で、六羅漢像の中央に聖観音(楊柳観音)が安置されています。
聖観音は湛海律師が寛喜2年(1230)に南宋から請来した木像です。





像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の面影を写させて造像したとの伝承を生み、江戸時代初め頃から「楊貴妃観音像」と呼ばれ

信仰されています。特に彩色が多く残り、生けるが如くに端坐する御姿は、その名に相応しい尊像です。多くの女性から美人祈願の観音様として親しまれています。

次に清水寺の夜間拝観へと向かいます。