「再会の旅---関西訪問2」から続く。
京阪山科駅から三条通りを西進、御陵(ミササギ)を経て、蹴上(ケアゲ)の浄水場に出た。御陵と蹴上は共に懐かしい地名、蹴上の浄水場はつつじの花で有名だった。5月には斜面を覆う赤いつつじと右隣の都ホテルは京都らしい華やかな光景だった。しかし時代は移り変わり、かつての都ホテルはウェスティン都ホテル京都に変わった。
(1)平安神宮と浪人時代
三条通りは蹴上から左に大きく曲がり三条大橋に続くが、左に曲がらずそのまま直進、南禅寺を右に見て疎水沿いの仁王門通りに出た。疎水に出るとすぐ右手に平安神宮の大鳥居が見える。
下の写真は、平安神宮前から見た大鳥居、写真右側には府立図書館と国立近代美術館、左側には京都市美術館と動物園が続いている。鳥居の高さは24m、鳥居のまっすぐ先500mほどに知恩院がある。
まず平安神宮に参拝し、御朱印をもらった。孫が列に並び御朱印帳に毛筆の美しい御朱印を書いてもらった。巫女さんの繊細な筆使いを孫がシッカリと記憶したと信じている。
平安神宮から正面の大鳥居を望む
上の写真右方向に筆者が通った予備校があったので、かつてはこの辺りを行き来した。末っ子だったためか、のんびりと2年間も浪人した。ヨットで言えば「観音開き」の帆走、風任せの浪人生活だった。
ここで、上の写真を見ると予備校横の道路にいつも駐車していたスチュードベーカーを思い出す。
下の写真はインターネットでコピーしたスチュードベーカー、アメリカの馬車メーカーが作った車とか。1950年代の車にしてはリア・ウインドウがカッコよく、どこかテキサスの駅馬車を思わせるこの後ろ姿にあこがれた。車体の色も下の写真と同じだった。人生にはあこがれが付きもの、この姿には今も憧れている。
スチュードベーカーのリアー(後部)
出典:2009年秋中古車広告(インターネット)より
このスチュードベーカーの姿は予備校につながり、予備校にも数々の懐かしい思い出がある。
今から65年も前のことだが、予備校の記憶は「ヒューストン」である。それは、人文地理の授業で、茶色の三つ揃いを着たチョビ髭の先生から「ヒューストンは綿花の積出港」と教わった。その先生は欧米を漫遊したらしく、風貌は山高帽とステッキが似合うロンドン紳士のように見えた。あの授業以来、予備校といえばいつもあの先生と「ヒューストンは綿花の積出港」、同時にスチュードベーカーを思い出す。
後年、ヒューストン大学に学ぶとは夢にも思わなかった。
後年、ヒューストン大学に学ぶとは夢にも思わなかった。
では、なぜヒューストン大学か?それは、筆者が「ほのるる丸」で初めて寄港した紅海のある港に話はさかのぼる。
(2)アメリカの大学と国連へのチャレンジ
海のない京都市に生まれ育った筆者は、子供のころから船乗りに憧れた。その結果、2浪までして商船大学を卒業、1963年に大阪商船の「ほのるる丸」に乗り組んだ。その「ほのるる丸」はスエズ運河に向かう途中、アフリカのある港で欧州向けの綿花を積み込んだ。
当時、日本は一応文明国、「ほのるる丸」も毎日、天気図、水路通報、日本語新聞をFaxで受信していた。
日本とアフリカの生活水準には大きな差があった。詳しい説明は省くが、岸壁に並べた原綿をデリック(船内クレーン)で吊り上げ船倉に積み込んだ。背丈ほどに圧縮した原綿は非常に重い。その原綿を船倉に吊り下ろすとき、待ち受ける作業員たちが原綿に群がり、飛び乗る様子は猿人のように見えた。重い原綿をすき間なく船倉に積載するのは危険な重労働だった。
泥で頭髪を固めた作業員たちは独特の汗の臭い、だれから聞いたかは忘れたが、彼らは生涯で二度だけ入浴する。一度目は生まれた時、次は死んだ時だと(多分フェークFake)。重い原綿の積込み作業で歌うような単調な掛け声は、哀歌のように聞こえた。
寄港のたびに目にする原綿の積込み作業と独特の汗の臭いに“感じるところがあって”、同じ人間として、発展途上国を支援しようと決意した。しかし、国連の専門職員には修士号と実務経験が必要と知り、科学技術の最先端をいくNASAに近いヒューストン大学を目指した。
あの時、神戸商船大学のフランス文学で学んだ“従妹ベット”(バルザック)の一節がこころのより所だった:金があっても意志がなければ何もできない、しかし、金がなかっても意志があれば何かを為せる・・・そこで私費留学を決意、まず寄港地で余暇をみて欧米の文化センターなどで大学に関する情報収集を始めた。
さまざまな人たちの支援を受けて、大学を絞り込み、憧れのヒューストン大学に入学した・・・そこは典型的なアメリカ・・・神戸商船大学と同様、強い願望と夢をもって入学した。
予想通りだったが、アメリカの大学生活は日本のように甘くはなかった。当然、アルバイトと自炊なし、寸暇も惜しむ猛勉強で卒業、さらに転職しながらいろいろな実務経験を重ねた。数次の試験・面接を受けて、国連専門機関のIndustrial Development Officer(工業開発官)としてウィーン本部に勤務した。
最後の面接官はメルボルン大学の経済学教授、試験の内容は忘れたが、先生は巨体だが非常に穏やかな紳士だった。またNY本部の人事面接官とは面談後に雑談、互いにタバコを勧め合い筆者が相手のタバコに点火する時、まさかの大きな炎、面接官の眉毛を焼いてしまった・・・次の瞬間、恐縮と爆笑が起こった。あの頃は、話のきっかけに互いに自分のタバコを勧め合う時代だった。そのような時代はいつの間にか山科疎水を鉄柵(サク)で固めるような時代に暗転した・・・筆者はあの鉄柵を人間をダメにする過保護の産物だと感じた。反面、柵のない世界では、自分で夢を描き、その夢を追う決意と行動する人がその世界の住人になる。そこには自尊心があるが、うぬぼれはない。
船乗りはチャート(海図)にコースライン(針路)を引いて目的地を目指す。変針点で針路を変えながらの航海、途中で荒天に出会っても針路を守る。こんな具合でアフリカの「綿花の積出港」から独り丸腰でウィーンを目指した。その航海は6年間、時には3%の成功率や7,800人の競争相手などの試練を乗り越えた・・・これらの数字は今も忘れない:「途切れない糸」の客観的な数値データである。
人生にはあこがれと絶望があり、努力の次には感動がある。日本では2浪、「デキのいい子」ではなかったがアメリカで学んだCan Do精神が役立った。
82歳の今でも、筆者のこころには2つヒューストンが生きている。一つは「綿花のヒューストン」、もう一つは「ヒューストン大学」である。
はじめのヒューストンは予備校で教わった「綿花のヒューストン」、その思い出は:
人文地理の三つ揃えのチョビ髭先生、同じく予備校の英語テキストだったA.J.トインビーやH.G.ウェルズのエッセー、絵画を目指す同級の美人浪人や流し目の二枚目浪人、スチュードベーカーの後ろ姿、アメリカへのあこがれ、いつも図書館の閲覧室で新聞を読む今で言うホームレスのような人、青空に聳える赤い大鳥居、山科疎水の不言実行、逢坂山の心臓破りの坂道、白いベンチがただ一つの展望台、風まかせで穏やかな予備校時代・・・
もう一つのヒューストンは「ヒューストン大学」、その思い出は:
目的は修士号だけ、図書館での猛勉強、試験成績発表の工学部ロビー、助手としての給料と授業料減額、最新型のコンピューター(複数)、ホスト・ファミリーや同僚たち、大学からNASAへの推薦&身元保証(やはり国連への就職が第一志望と辞退)、メモリアル・パークの素晴らしい紅葉、高級住宅街の教会と慈善活動、思い出のR10とR45(HWY)、余裕がない緊張の日々・・・
実際のヒューストンは「綿花の積出港」のイメージではなかった。むしろ、石油産業(メジャー)、臓器移植(メディカル・センター)、NASA、アストロドーム(巨大ドーム型球技場)を身近に感じる先進的な都会だった。日本の教科書には「井の中のカワズ」的な面があり、現実とは異なる情報もあると思った。(チョビ髭先生の責任ではない。また、筆者が足で収集した情報は正しかった。)
さらに、「ヒューストン大学」を思うとき、日本とアメリカの学校教育の違いが浮かび上がってくる。
(3)日米の教育格差
筆者はその違いを、日本の「叱咤激励」とアメリカの「個性尊重」として明確に記憶している。
筆者が受けた日本の教育は1940~50年代、アメリカは60年代後半と2003年秋(聴講2ケ月)である。また、筆者の言う「アメリカ」には、現在 孫が通うハノイのインター(ナショナル スクール)も含んでいる。記憶には時間差があるが、次のように要約できる。
1)日本の教育
①1クラス50人
小、中、高校のクラス編成は1クラス50人ほどで、1学年6~8クラスだった。学校は、標準品の多量生産のように大勢の卒業生を送り出した。
②記憶中心の試験
歴史年表、数式、法律の条文などの暗記、教科書や先生の教えをよく覚えておくことが試験勉強だった。試験前日の一夜漬けや丸暗記、経験はないがカンニングする生徒もいた。
後年アメリカで、コンピューターの計算能力と記憶容量は人間の比ではないと知った。
③叱咤激励
先生が生徒あるいは生徒同士が叱咤激励、一つの目標に向かった。部活などでは「チームワーク」や「人の和」のための叱咤激励、全員が同じ(画一的な)価値観で頑張った。叱咤激励は職業訓練に適しているように思った。
「叱咤激励」に「いじめ」が隠れることがあった。
④教科書
教科書の内容が、効率よく生徒の頭に刷り込まれた。教科書は一種の金型、工場の金型や鋳型は同じ形状の部品を多量に造り出す。また、小学校入口の二宮金次郎像に“勤勉”を学んだ。
50年前の記憶だが、小学校から大学まで日本語の教科書で勉強できる日本人は恵まれていると思った。当時は、自国語の教科書がない国もあった。専門書の海賊版(英語)が教科書という大学もあった。
2)アメリカの教育
①1クラス20人
大学のクラス編成は1クラス20人以下、20人を超えるとその講座は閉鎖された(Closed)。理由は、20人を超えるときめ細かな指導が困難とのことだった。孫のインターも同じ。多品種少量生産のように先生は学生の長所を大切にした。
②Originality(独創性)とPresentation(発表)
宿題、小論文、試験、Presentation (発表)では先生や学生は、Original Thought(独創的な考え)を高く評価した。
試験は参考書やメモの持ち込みOK。筆者はアメリカの大学で、暗記が勉強でないことに気付いた。
独創的な考えは、相手に理解してもらわないと意味がない。したがって、自分の考えを相手に伝えるPresentationはOriginal Thoughtと同様に大切だった。
筆者の体験だけでなく、孫のインターでも小1から発表を重視している。高学年になると自分の考えをPCの動画で表現、クラスで発表する。また、学期末には、自分が受けた1学期の授業内容を先生と父兄に説明する。
③個性尊重
生徒の個性を尊重する。個性からOriginal Thoughtが生まれる。もちろん、生徒が知らない新しい概念は一から教えるが、生徒の個性を生かしながら、その概念を理解するように指導する。
孫のインターでは、先生は生徒の得意とすることを褒めて、生徒に自信を持たせて次への意欲を引き出す。ソクラテスの“好きこそ物の上手なれ”**と符合する。【**参考:想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)2017-08-25】
さらに父兄面談でも、先生が生徒の長所を褒めるので父兄はHappyになり、次回が楽しみになる。しかし、日本は逆、父兄も先生に「叱咤激励」されて落ち込むことが多いと云う。(筆者の娘や他の父兄談)
④教科書
大学の初回講義で、先生が教本(複数)を指定、試験や宿題などの配点と日程の説明があった。教本は試験の範囲、もし授業内容が自分に合わないと思えば、1ヶ月以内にWithdrawalが可能だった(受講キャンセㇽと授業料返金)。
成績が悪いと学位を取れなくなるので、自信がない科目はWithdrawalで授業から撤退できるルールがあった。
孫のインターでは教本がないこともあるが、父兄はデータベースで授業方針と内容をPCで閲覧できる。
以上、筆者が体験した日本とアメリカの教育である。日本の「叱咤激励」とアメリカの「個性尊重」ともに、それぞれの教育が人生の一部になったと思っている。
筆者はなぜか暗記が不得意、それも自分の特性の一つ、たぶんそのせいで日本の大学入試では2浪した。しかし、2浪で視野も広がりアメリカにつながった。アメリカの大学は努力に報いてくれるので、勉強がおもしろかった。また、いろいろな形で先生たちに助けられた。
たとえば、期末試験中、勉強のし過ぎで必須科目の試験を寝過ごした。しかし、先生からの電話で慌てて登校、その日の午後に先生の部屋で特別試験を受け、助かった。今もあの先生と電話の呼び出しベルを思い出す。当然、成績はCだった。しかしそれは先生の思いやりと懐かしさに結びつくC、今も先生に感謝している・・・他にも命拾いが2回あった。学部長はじめ、先生や職員は家族的だった。先生たちにこころから感謝している。
日米大学の違いを簡単な言葉に変えると、
◇学生評価:日=点数重視/〇X式(Yes or No) 米=努力重視、柔軟な学則運用
◇教職員と学生の距離:日=「遠」 米=「近」(1クラス20名以下のため?)
◇大学生の印象:日=遊びとアルバイトに多忙(受験後の開放感?) 米=よく本を読む
◇出席点:日=重視しない 米=重視
アメリカの大学で自分に目覚め、自分の道を見付けて歩き始めた。
筆者はアメリカの大学でヘルプ・デスクとして不特定多数のコンピューター利用者を支援した。学部を問わずさまざまな学生や留学生の相談に乗った。ほとんどが数学の問題だったが、そのアプローチは十人十色どころか、千差万別だった。いろいろな考え方と共存する生き方を学んだ。
ただ一つの手法の紹介だけでなく、ヘルプ・デスクとして、できるだけ学生の考え方を尊重しながらコンピューターが作動するように指導した。その時、別の新しい回答を見付けることもあった。この経験で筆者の人への接し方も変化した。
相手がだれであろうが、YouはYouである。相手をみて言葉使いを変えることもない。丁寧語や敬語のある日本、或いは東南アジアの田舎でも言葉使いは変わらない。そこに相手との会話も生まれる。
ときには、相手に教えることで自分も教えられた。まさに、When the right hand washes the left hand, the right hand becomes clean also. Ibo proverb.(右手が左手を洗うとき、右手もまたきれいになる。アフリカのイボ族諺)のとおりである。
回想は長くなるのでここまで、次回は、4年ぶりに四条通りを再訪して、その現状と将来を考えたい。