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関西訪問4---四条通りとヒューストン・メイン通り

2019-11-26 | 地球の姿と思い出
「再会の旅---関西訪問3」から続く。

3.四条通り
平安神宮の参拝を終え、東大路を八坂まで南下、四条通りを目指した。今の「東大路」は昔の「東山通り」、「東大路」はなんだか平安京の響きがあり、「京都」には違和感がある。駅名も昔は「四条」や「五条」をいつのまにか「祇園四条」や「清水五条」に変更、観光京都を強調し過ぎた改名に見える。

四条に向かう途中、東大路三条近くの模型店を覗いたが、店の中はプラモデル中心の商品棚に変わっていた。模型電車の手造りは時代遅れ、少年たちの関心はプラモデルやNintendo Switchなどに変化した。自分が生み出すオリジナル品より、金型で多量に生産される完成品を求める・・・子供たちの「もの造り」離れが気になる。

また、かつては東山通りにも市電が走っていたが、1978年秋にあっさりと全廃した。その歴史は、琵琶湖疏水の発電で1895年に実現した世界有数の路面電車だった。いつか京都市も街並みに似合う路面電車を復活して、世界の著名都市への仲間入りをして欲しいと思った。

八坂から南座前と四条大橋を渡り、四条河原町の交差点にでた。レンタ・カーはここまで、後は三条と四条を中心に街並みを散策した。

まず、錦市場の天満宮でご朱印をもらった。

下の写真は錦市場の東端にある錦天満宮の鳥居である。錦にも外国人好みの色鮮やかな京菓子もちらほら、狭い商店街を行き交う人にはタイ語を話す人びとも見られた。

            錦小路通から見た錦天満宮
            

長年タイに出入りしたので、タイ人とおぼしき人々にはつい近親感を覚える。彼等には日本人の考え方に近いところがあり、若い男女の敬老の念や仏への信仰心は日本人以上である。乗り合いバスで白髪の筆者が足の不自由な若い女性に席を譲られたのを忘れない。ただ、高温多湿のタイでは食品市場の匂いは強烈、錦市場の匂いは淡泊で物足りないかも知れない。言葉に困るタイ人に出会うと、つい助けたくなり相手も非常に喜ぶ。タイで受けた親切へのちょっとした恩返しである。

ここで、以前から気掛かりだった四条通りの歩道を様子見がてら歩いてみた。

下の写真は四条小橋(高瀬川)から南座の方角を見た写真である。この日は火曜日昼ごろ、歩道は広々としており、車道にも渋滞は見られなかった。

               四条通(高瀬川四条小橋)から南座を望む
             

下の写真は、同じ日の午後、大丸近くから河原町方面に向かう四条通りである。

            河原町方向の四条通り(渋滞はない)
            

四条通りが片道2車線から1車線に縮小+歩道の拡幅に変更されてから既に4年以上も経った。4年の歳月で人びとは突然の車線縮小に慣れたのか、昼の時間帯には深刻な交通渋滞は見なかったので一安心した。

「車の1車線を歩道に譲った」京都市には強い反対があったと思うが、あの変更は勇気ある英断だったと高く評価している・・・高度な未来都市では、旧式の歩道は拡幅を避けられないと思っていた。歩道の幅が広いテキサスのヒューストンでもメイン通り(ダウンタウンのMain Street:中央道り)の片道2車線の1車線をLRT(路面電車)に譲った。全米で車社会最右翼都市ヒューストンの将来への布石である。

なつかしいヒューストンを思い出しながら、ここで「再会の旅---関西訪問」を終える。身近な人びとや風景と再会した貴重な旅だった。

---◇◇◇---

筆者は、「道路の主役を車から人へ」を大いに歓迎する。しかし、その考えは、筆者たちが京都駅に向かうタクシー・ドライバーさんの一言「1車線化は失敗した」を、ただの苦情と無視するわけではない。それはバスやタクシー、現代の公共交通機関への苦情でもある。

下の2枚は、工事直後の四条通りを筆者が4年前に撮影した写真である。これらの映像は、1車線を歩道に譲った代償として、今も筆者の脳裏に鮮明に残っている。

            4年前の停車スペースのタクシー(2015/10/19)
            
            出典:当ブログ、京都訪問---四条通りの変化(続き)2015-10-25

            4年前の平日午後3時頃、バスの行列(2015/10/15)
            
            出典:当ブログ、京都訪問---四条通りの変化(続き)2015-10-25

上の2枚以外に、もう1件の図表も筆者の頭から離れない。それは当ブログに示した下の図である。この図では、「日本の人口」は2008年をピークに減少を続ける。大規模な戦争や移民がない限り、一般に人口予測はブレが少ないと云われる。筆者もこの説に同感である。


上の図では西暦2105年の総人口は4,600万人である。特に、子供の人口420万人は深刻な数字である。

2020年を起算日にすると2105年までたったの85年、人生100年時代の現代では、直近の将来である。長寿社会の健康人口は?移民人口は?公共サービスは?などの未知数も多い。準備すべきことは多い。

次回から「コンパクト・シティーの姿」を仮想ベースで考えたい。

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