小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源40

2014年07月16日 00時22分27秒 | 哲学
倫理の起源40




 さて、このような内的な秩序によって成り立っている家族的共同性に内在する倫理性とは何か。またそれは、他の共同性の倫理とどのような関係に置かれているか。
 前者については、もはや多言を要しないだろう。上記①②③のそれぞれ及びその複合が必然的に要請してくる倫理性を家族はそなえていなければならない。
 ①の条件の要請は、以下のようなものとなろう。
 外の異性と性的関係をもたないこと、互いに仲よくすること(小さな不満は我慢すること)、その夫婦固有の「協業」の時間をなるべく多く持つこと。
この最後のものは「子育て」が最も重要で象徴的な意味をもつが、その他、家計の処理、家政運営の役割分担、家業を営んでいる場合には息の合った緊密な協力関係などが要請される。なおまた、この「協業」には、必ずしも「しなければならない仕事」というふうなことだけを意味するのではなく、「ともに楽しむ」時間を確保するというようなことも含まれる。
 ②の条件の要請は、言うまでもなく①の条件の要請が満たされることが前提となる。
 思春期以前の子どもは、人間としての自分の非自立性を直感しているので、彼らの親に対する親愛の情や信頼の気持ちは、自分の存在の最終的な受け皿がこの人たちしかいないという感覚によって媒介されている。これは乳児期を脱して「物心」がついた幼児段階から、思春期に至るまでずっと一貫している。児童期になって行動半径が拡大し、交友範囲が広がっても、よほどのことがなければ彼らは「ウチ」に帰ろうとする。そこで逆に、親である夫婦に少しでも危機の兆候を見出すと、彼らは大変な不安に陥る。
 私事を持ち出して恐縮だが、私の両親はあまり仲が良くなく、三日とあけずに夫婦げんかをしていた。父はもともと大酒のみであった上に人生の挫折感が重なり、家計も貧しかったため、私が物心ついたときには、もはや子育てに大きなエネルギーを割く余裕を持っていなかった。母は、生真面目な性格で日々の生活や子育てには真剣に取り組んでいたが、普通の主婦とは違って少々プライドの高すぎるところがあり、その分だけ傷つきやすく、飲んだくれ亭主をうまく操ることができないたちだった。こういう二人がけんかを始めると、怒鳴る親父と負けずに言い返すお袋、という構図になる。これが蜿蜒と続いている時間帯では、狭い屋根の下で子どもは、その嵐が去るまでおびえながらじっと押し黙っていなくてはならない。介入できるようになるにはある程度成長することが必要である。
 夫婦の亀裂は、それが彼らにとってたとえ小さな日常茶飯事であっても、幼い子どもの心理にとても暗い影を落とすものである。後年私は、自分が父親となった時、両親を反面教師として、夫婦の協和を心掛けたつもりだったが、やはり思った通りにはいかず、両親に比べてけんかの回数が少し減って、楽しい時間が少し増えたくらいのところだったろうか。夫婦の協和は子どもにとってとても大切だが、その円満な実現はじつに難しいと痛感した次第である。
 しかし、この夫婦の協和とは一応別に、親子関係という特殊な関係のあり方に焦点を合わせる時、子どもに対する親の人倫性(=人間的な意味での「愛」)とは何か、またそれは、父親と母親ではどう違っているかという問題が現れる。
 子どもに対する両親の人倫性は、まず初めに、自分たちの睦まじい時間の共有が新しい生命をこの世にもたらしたという感動によって支えられる。それは、二人の性愛関係のこの上なく確実な、目に見え手で触れられる生きた証拠だからである。
 もっとも、そう遠くまでさかのぼらない未開社会の一部では、女性の妊娠・出産が男性との性交によるものではないと考えられていたらしい(マリノウスキー『未開人の性生活』)。それは妖精のしわざであり、男性は性交によって女性の膣に妖精の通り道を開けるだけだというのである。しかしこうした非科学的な神秘性を担保した世界でも、ある特定の男が生まれてきた子どもの父親であるという社会的な認知作用自体は機能している。その特定性は何によって保証されるのかといえば、一定期間、性愛的な空間を共有した(「あのふたりはできた」)という感知が自分たち及び周囲にはたらいたことによるのであって、まずそれ以外には考えられない。
 ちなみにマリノウスキーが指摘した事実は和辻前掲書によってたびたび言及されている。和辻の意図は、家族の人倫性の成立にとって、性交という生物学的な「事実」よりも、婚姻という社会制度に基づく夫婦および親子の「存在の共同」こそが決定的であると強調するところにある 和辻の指摘は、人間社会をただ生物学的自然から因果づけるのではなく、まさに人間社会としてとらえることにとって重要な意義を提供している。しかし「存在の共同」を当事者及び周囲が認知するその根拠は、一対の男女が性愛的・排他的な空間を構成している(あるいは構成することが承認されている)というところにしか求められないだろう。
 もちろん、歴史上、両親が養育の主体となる近代家族のような形態が確立していたわけではなく、母系制氏族では養育は母方の親族によってなされるとか、男は自氏族から他氏族の女のもとにときおり通うだけだったといった形態が存在したであろう。そういう通い婚のような形態の残存は、平安時代の貴族社会などに明らかに認められ、そこでは男は権力に任せて産ませっぱなしで、ほとんど自分の子どもの養育に具体的にタッチしていない。しかしこのような場合でも、特定の男女がある一定期間、性愛の空間を共有したという事績が重視され、それにもとづいてこの子の父親はだれそれ、という認証が行われたことだけは確かである。これは、和辻の言うとおりであって、実際に父親の遺伝子(生殖細胞)が子どもに分与されているかどうかという生物学的事実とは必ずしも関わらない。またこの事実は、一夫多妻制が公認されているような社会においても、何ら変わらない。
 この性愛関係による生活時間の共有の感動はほとんどそのまま、子どもの出産における感動に連続する。そうしてこの感動の連続性が維持されることが、すなわち子どもに対する親の人倫性を形成するのである。そうでなければ、女性が妊娠してその父親が誰だかわからないようなとき、孕ませた男はだれだという非難や好奇心を伴った疑問、つまり関係の確認の欲求が、周囲にあれほど強く巻き起こるはずがない。
 また、養子や連れ子の場合のように、性愛の時間を共有した結果としての子どもでなくても、親の人倫性は十分確保できるではないか、という反論が考えられる。もちろんその通りである。しかしこの場合は、一種の擬制としての家族関係が営まれているのであって、こういう代替機能が可能なのは、そもそも人間という生物が、基本的・自然的な成り行きを観念の力でそのまま引き写して自己演出できる生物だからに他ならない。養子や連れ子に実の子と同じような人倫性を施すことができるのは、「この子を自分たちの間に生まれた子どもと思うことにする」という当事者自身の言い聞かせの力によるのである。

 次に、子どもに対する親の人倫性を支える条件は、子どもが未熟で自立できず、生きるためにまさにほかならぬこの自分たちの存在を必要としているという感覚である。これは一般に「食べさせていく必要」として理解されているが、それだけで人倫性の概念を覆うことはできない。それ以外に、未熟で自立できない存在が可愛らしい風貌や立ち居振る舞いを示していつも手元にいるということそのものがいとおしさをかき立て、その感情が人倫性を育てるのである。
子どもに対するエロス的な感情は、人倫性にそのままではつながらないが、親の人倫性の概念が十分に満たされるためには、この感情の参加を不可欠とする。養育にかかわる責任感も、この感情が伴わなければ、時間や給料や役割によって規定づけられた単なる「仕事の責任」と変わりないものとなろう。
 先に私の父親の、親としてあまりやる気のない疲れた様を描写したが、母が伝えてくれたところによれば、私が記憶に残らないほど幼いころ、父は、私を指して「こいつを見ていると、勇気百倍だな」と言ったそうである。彼は、母が私を孕んだとき、「俺には養っていく自信がないから、堕してくれ」と何度も頼んだということなのだが。