小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

高度大衆社会における統治の理想

2018年05月15日 23時31分50秒 | 政治


前回このブログに、「誰が実権を握り、日本を亡国に導いているか」という記事を投稿し、多くの方の支持をいただきました。
またこれとほぼ同じ記事を三橋貴明氏主宰の「新」経世済民新聞にも投稿し、ここでもかなり好評でした。
これらの支持をお寄せくださった方に感謝いたします。
しかし中には、「右顧左眄していて、何を言いたいのかよくわからない」といった意味のコメントもありました。
こうしたコメントを寄せる人々には、失礼ながら、もう少し正確な読み取り能力を養っていただきたいと思います。
もちろん、これ以外にも見当はずれなコメントは多々あります。

再読していただければわかりますが、筆者の言いたいことは明瞭です。
要するに、いまの日本の政治で実権を握って日本を動かしているのは、必ずしも安倍首相ではなく、まして与党の有力国会議員でもなく、国民の前に姿を見せない財務官僚たちと、内閣直属の各種会議の「民間議員」と称するグローバリスト委員たちなのです。
国民は、空しい議論に明け暮れる国会の動きや政局の今後などより、まず何よりも、そのことにもっと気づくべきだというのが、その趣旨です。
ちなみに筆者の論考は、何ら安倍首相や安倍政権を擁護するものではありません。
もとよりこの政権の経済政策が、日本を一歩一歩後進国化へと導いていることは確実ですし、国政の最高責任者が安倍総理大臣である以上、その最終責任が安倍氏その人にあることは論を俟ちません。

ところで、昨年七月、このブログに、「劉暁波氏の死去に際して、自由について考える」と題して書いたのですが、
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/7696149109a06090abb7709bc9827b41
日本の言論状況は、なまじ「言論の自由」が形の上で保障されているために、諸説乱立のまま放置されています。
政府関係者も、野党も、マスメディアも、学者も、ネット言論も、みんな勝手なことを唱えて、ほとんどだれも責任を取ろうとしません。
まともな議論がいまの日本には成立していないのです。
いくら正しいと思えることを、論理と証拠を挙げて論じても、声のデカい勢力の洗脳にたぶらかされ、聞く耳を持たなくなった人たちが圧倒的多数を占めていて、「暖簾に腕押し」の状態です。

もちろん、中には少数ながら、こうした状況にもめげず、繰り返し正論を唱え、それに見合った実践をしぶとく行っている人々もいますから、絶望してはなりません。
じっさい、この人たちの努力が少しずつ浸透している兆候はあります。
たとえば、自民党の三回生議員が中心となって作られた「日本の未来を考える勉強会」(代表・安藤裕衆院議員)が、このたび消費増税凍結やPB黒字化目標の撤回を求める提言を発表し、安倍首相に、6月に予定された「骨太の方針」に反映するよう要求することを決定しました。
これなどは、そのよき兆候を明確に示しています。
この会は、30人ほどによって構成されています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30361800R10C18A5EA3000/
筆者は、この会を心から応援するとともに、ますます勢力を伸ばすよう祈りたいと思います。

ただ、「言論の自由」なるものがいまの日本の大勢のような状況を呈していると、こうした兆候だけではまだまだ足りず、言論人の端くれとしては、この「暖簾に腕押し」状態をどのように打開したらいいのか、と頭を悩ませざるを得ません。
社会批判、政権批判の有効性について考えるとき、やはり念頭に置かなくてはならないのは、高度大衆社会という苛立たしい現実です。
高度大衆社会とは、先進民主主義社会の必然的な帰着点と言ってもいいものです。
その条件は以下のとおり。

(1)経済的な豊かさがそこそこいきわたっている。
(2)高等教育がそこそこいきわたっている。
(3)誰にも言論の自由があることが法的には保証されている。
(4)誰にも政治参加の機会が一応は与えられている。
(5)マスジャーナリズムが不必要なほど肥大している。
(6)情報技術が高度に発達している。
(7)主権者であるはずの国民が中央政治やマクロ経済に真剣な関心を示さず、簡単に割り切る習慣を身につけている。
(8)世論なるものが、マスジャーナリズムの印象操作によって形成される。
(9)災害時の風評被害の例のように、情報伝達のスピードと不正確さが背中合わせになっている。
(10)豊かさに陰りが見え、格差が開くと、ルサンチマンが強い力を持つ。

こうした状態が長く続くと(続いているのですが)、実権を握る者たちの大衆操作がしやすくなる反面、民衆が、それとは必ずしも連続しない感情的な世論に迎合しやすくなります。
また情報発信が誰にでもできるので、深い考えもない人々が一丁前に意見を言うことで、「自己実現」を果たした気になります。
それらの多くは、大局を見逃した些末な問題に偏りがちになります。
つまり政治の表面にあからさまな権力者(皇帝など)が君臨していなくても、国家や国民生活の命運を左右する重大事が、慎重な議論もされないままに、いつの間にか空気や時々の勢いによって、決定されて行ってしまうのです。
かくして、高度大衆社会こそ、全体主義の生みの親です。
全体主義というと、だれもがヒトラー・ナチス・ドイツや、ソ連のスターリニズムを思い浮かべますが、現代の全体主義は、一人あるいは少数の権力者によって作り出されるのではありません。
民衆の一見不統一な集合のうねりそれ自体が、すでに全体主義なのです。
形式的な権力者は、高度大衆社会では、民衆に迎合せざるを得ず、その点でむしろ無力です。

こうした状況に対処するには、次の方法しかありません。
よく考えることにおいて卓越した能力を持ち、公共精神あふれる者たち(真のエリート)が、権力者に実際に働きかけ、適切な政策提言をし、時には政権に一定のポストを占めることです。
以前、このブログで、「新」国家改造法案として提案したことがあるのですが、
これを少しでも実現するためには、まず上のような人たちによる、「スーパー・シンクタンク」のようなものを作る必要があります。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/fee57cf113cc09fe54fde5299f6fb1b0
こういう人たちが少なくとも10人集まって、定期的に会議を開き、これからの日本の進むべき方向を決めていくのです。
これは、政権が代わっても存続する必要があります。
それだけの権威を維持するのに何が必要か、どうやって権力に食い込むのか、それを考えるのがさしあたっての課題です。
この発想は、プラトンの「哲人国家」論に近いものがあります。
筆者は、プラトン思想に必ずしも共鳴するものではありませんが、彼がペリクレス時代の民主政治にたいへん批判的だった点には、共感できるところがあります。
プラトンは、衆愚政治が師のソクラテスを殺したと考えていました。
真のエリートを活かすことができない現代でも、基本的な問題点は変わっていないのではないでしょうか。