小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

自殺幇助はどこまで許されるか(その3)

2018年05月26日 23時40分59秒 | 思想


 明らかな犯罪行為と美しい幇助との間に無限のヴァリエーションがあると言いましたが、意図的な自殺とは別に、現代では、病院における末期患者の安楽死の問題が大きくクローズアップされています。
 苦痛の耐えがたい末期患者などに医師が毒物を注射して行う積極的安楽死は、本人の意思(または意思が確認できない場合は近親者の同意)にもとづくので、一種の自殺幇助です。もちろんそこには、厳しい条件が付けられます。
 これが合法化されている国はまだ少なく、スイス、ベネルクス三国、カナダ、アメリカの五州、オーストラリアの一州、韓国などです。しかし、無駄な延命措置の停止などの消極的安楽死(いわゆる尊厳死)は、日本でも、合法ではないものの、違法性が阻却されるのが普通です。
 実際に医療現場で終末期にある患者にどれくらいの割合で、延命措置の停止が行われているか、確実な資料はありません。数%に過ぎないという説もありますが、これはあてになりません。
 しかしいろいろな意識調査では、8割から9割以上が、尊厳死を望むという結果が得られています。これはほとんど全員と言っても過言ではありません。ただ、生前、意識が確かなうちに書面でリヴィング・ウィルをしたためておく人は、日本ではまだまだ少ないようです。
 筆者自身は、無駄な延命措置をしないようにとのリヴィング・ウィルを家族に表明しています。
また、もう三十年近く前になりますが、筆者は、死期の間近な縁戚者の人工呼吸器を、家族の同意を得て医師が外した現場に居合わせたことがあります。その縁戚者は、末期癌で抗癌剤を飲まされ、副作用でかなりつらい思いを味わい、結局最期もだいぶ苦しんだようです。病院側も家族の申し入れを割合素直に受け入れ、訴訟を恐れるという風はありませんでした。
 筆者の想像ですが、実態としては、末期患者で脳死状態に陥り、家族の求めがあった場合、こうした延命措置の停止は、かなり行われているのではないかと思います。表ざたになっていないだけではないのか、と。
 苦痛の緩和措置も普通に行われるようになり、終末期医療が発達している今日、8割から9割の人が無駄な延命措置をやめてほしいと望んでいるのですから、尊厳死はもっともっと公認されてよいでしょう。その方が医師も気が楽になります。
 これは価値観の問題なので強弁するつもりはありませんが、高齢者は残されることになる遺族のために、リヴィング・ウィルを積極的に書面で残しておくべきだと思います。

 また筆者は、安楽死さえ公認されてよいと考えています。
 オランダで安楽死が合法化されたのが二〇〇一年ですが、その時、実行を申し出た末期患者と医師とのやり取りをテレビで放映していました。淡々と事態は進んだのですが、仕事とはいえ、やはり医師の側にためらいと苦悩の表情がありありと見られました。死刑執行人のような気分なのでしょう。
 自殺を罪とするキリスト教国の伝統から無縁ではありえず、それはそうだろうなあと、見ていて思いましたが、反面、これは慣れの問題でもあります。法的な権威の下に命を委託され、責任を問われることもないのですから、医師も職業人としての使命を全うすべく、患者の希望には毅然として接するべきではないかと考えました。
 
 最後に、再び西部氏のことに話を戻しましょう。
 奥様を亡くされ、だいぶお体も悪くされていたようで、また、いくら言説を唱えても変わらぬ「この世」の姿にうんざりしていた様子も見られましたから、これらのことが自裁理由の大きな部分を占めていたのでしょう。
 しかし、もし日本で安楽死が合法化されていたなら、それを選ぶこともできたのではないでしょうか。入院し、事情をよく説明し、決然と意思を表明する。西部氏ならご家族を説得することも可能に思えます。そうすれば、自らの意思で死を選んだことになり、日頃の信念と合致させることもできたわけです。何よりも、人を巻き込む必要はなかった。
 彼は、現在の自然死は病院死と同じだと説いて、その事実を忌避していました。気持ちはよくわかります。入院した折に、ひそかに抜け出して、だれかと酒を飲みに行ったという話をどこかに書いていたように思います。いかにも「腕白坊主」のリーダーらしさが出ていて、僭越ながらとても微笑ましく感じたものです。もし安楽死が容認されていたら、彼のなかで「病院」のイメージも少しは違ったものとなっていたのではないでしょうか。
もうこのあたりのことについてお話を聞けないのがとても残念でなりません。