小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「非行」としての保守――西部邁氏追悼

2018年05月19日 14時05分37秒 | 思想


以下の文章は、藤井聡氏が主宰する雑誌『表現者クライテリオン』(2018年5月号)の「西部邁 永訣の歌」に寄稿した文章に微細な修正を施した上で、転載したものです。ちなみに原稿執筆の時点では、西部氏の自裁を幇助した容疑で二名の人が逮捕された報道はなされていませんでしたが、報道事実の後でも、この文章には何ら変更の必要がないと考えていることをおことわりしておきます。


 思想というものを、一人の人間の血肉から引きはがしようのない言葉の塊ととらえるなら、西部邁氏が吐き続けた言葉の塊は別に「保守思想」ではない。
 いつの頃からか、かけがえのない言葉の塊を、それが政治に関わるからというだけの理由から、左翼、右翼、保守、リベラルなどという便宜的理解で片づける習慣が定着してしまった。しかし試みに、そういう分類用語を用いてわかった気になっている人々に、「あなたの言う保守とはいったい何ですか。定義してみてください」と意地悪な質問をしてみてはどうだろうか。大方は、政党名や政策の特徴などに結びつけたぼんやりした答えしか返ってこないに違いない。もう少しましな場合には、国家秩序の維持、歴史や文化伝統の尊重を信条とする思想傾向といった答えが返ってくるだろうか。
 西部氏自身、たしかに自ら「保守」を標榜されていた。その場合、国家秩序の維持や文化伝統の尊重を口にされることもしばしばだった。
しかし、「保守」という概念に関わって彼の言葉で最も頻繁に目にしたのは、「生の危機にたえず向き合いながらも、自由と秩序、平等と格差、博愛と競合、合理と感情などの対立項の一方に身を寄せずに、たえず平衡を保ち続けること」といった定義だろう。その平衡の保持から活力、公正、節度、良識といった価値が生じてくる。西部氏は、それを「保守」の理念とされていた。
 このような理念の表明の仕方自体がすでに十分個性的であって、普通の日本人がイメージする政治的な概念としての「保守」からはかなりかけ離れている。この理念は、政治的党派性を表すものと言うよりは、むしろ生き方の規範と言った方がよい。つまり西部氏の本当の思想的関心は、「我々一人一人がどのような規準によって生きるべきか」という実存的なところにあったように思えてならない。

 事実、西部氏は、集団的狂騒を嫌い、ルールやマナーを守って静かに会話を楽しむことをたいへん重要視された。たとえばそれは、ソクラテスやストア派やエピクロスら、古代ギリシャの哲人たちの高貴なたたずまいを理想としているようだった。
 もちろん静かな会話といっても、その具体的内容の多くは政治的なものであったし、その場合、よって立つポジションは、概ね世間が考える「保守」的なものであった。けれどももう少しよく詮索してみると、そこには、凡俗や衆愚を嫌悪する風が濃厚に漂っていたことがわかる。彼の批判対象が、マス社会、戦後平和主義、ヘドニズム、拝金主義、技術文明一辺倒、総合化を忘れた専門人、物質的快楽追求の象徴としてのアメリカといったものに向けられていたことによっても、そのことはうかがわれよう。
 それはあまりに鋭い否定の情熱に満ちていたので、なまなかの「保守」という器に収まりきるものではなかった。西部氏の政治言説の鋭さは、政治そのものの汚らしさ、欺瞞性を知り尽くしていた者のそれだった。現実政治に対して鋭い切り込みをするには、そういうことが必須条件となるからである。

 だが凡俗や衆愚への嫌悪という感性を芯のところに持ちながら、それでも西部氏は、あの人懐っこい頬笑みを絶やさず、政治論議という猥雑きわまる世界に可能な限り付きあった。そこには、ひとたび共感を抱いて接触をもった個々の人々に対して已みがたい親愛の情を惜しまないという、もう一つの感性が同時に働いていたからだろう。
 だから西部氏の周囲には、必ずしも信条を同じくしない多くの人々が集まった。といってもそれは、こうした独特の感性のあり方からして、多少とも社会の現状に満足しない少数派に限られるようだった。そのことに西部氏はとても自覚的だった。

 西部氏の反時代的、またあえて言えば反社会的といってもよい資質は、ずいぶん早い頃から身についていたようだ。終戦の年、六歳の早熟な子どもだった西部少年は、戦後の価値の大転換に対して、すでにして強烈な違和感を抱いたらしい。
 中学生の時、硫黄島決戦を描いたアメリカ映画を見せられ、星条旗が掲げられた時に他の生徒たちがいっせいに拍手するのに接して、一瞬何が起きたのかと思い、次にこいつらはみな莫迦で下劣だと感じたという。
 この体験は、反米思想やナショナリズムの目覚めというよりは、同胞の敗北に何の痛痒も覚えない烏合の衆の鈍感さに対する、多感な少年の激しい嫌悪と孤立感とを物語っていると言ってよいだろう。
 西部氏はまた、後に本物のやくざになる高校時代の親友のことをたびたび書かれている。両親はなくたった一人の姉はそれらしい職業についていた。しょっちゅう喧嘩で腫らした手で鉛筆を握り、猛烈に勉強していたその友人は、西部氏と最高位の成績を競い、彼の家にある世界文学全集を片っ端から借りていった。だが二年の冬にその友人は中退し、十五年後に再会した時には、重症の覚醒剤中毒でボロボロの体だったという。
 大学時代は安保闘争とその後始末で明け暮れた。ほとんど共産党に対する反逆としてだけ意味を持ったブント(共産主義者同盟)に迷わず属した西部氏は、二十五年後に、同志たちの群像について、『六〇年安保 センチメンタルジャーニー』という秀逸な一書をものする。中で彼は、ブント自体を非行者の群れと位置づけ、次のように書いている。

多数者のとは目立った形で異なる素行、それが非行なのだとすると、否応もなく非行者を模索するのが私の交際法である。私自身は目立つまいと努めるのだが、非行者との縁が私をひきつけて已まないのである。(中略)畢竟してみるに、ブント体験が私にもたらしてくれた最大のものは、非行者との縁を断つことの不可能を教えてくれた点にある。

 このアウトロー的感覚が、逆説的に西部氏の社交性に連続している。この書が書かれた直接のきっかけは、安保闘争のアンチヒーロー・唐牛健太郎の早すぎる死である。しかしその筆致の底にあるのは、かつての同志であった「非行青年たち」に対する西部氏特有の判官贔屓と呼んでもよい人情のあり方である。次の一節がそのことを証し立てている。

いったい私はスターリニストから被害を受けたのであるか。被害はほとんど零である。それなのにスターリニストに屈服できなかったのは、またしても私流の馬鹿気た動機からである。私は島成郎や唐牛健太郎や青木昌彦がスターリニストによって葬り去られるのを座視できなかった。彼らは私より年長で、さして親しい間柄というのではなかったが、いかんせん、彼らの話し方、笑い声、身振り手振りまで知ってしまったのである。》(太字は引用者)

 この書が出版されてから二年後に西部氏は東大を辞職されている。それ以前からやめたいやめたいと周囲に漏らしてもいた。教授陣の何割かは精神疾患にかかっているという意味の言葉もあった。しょせんは自分を容れる器ではないと見限られたのだろう。遅まきながら「非行」を復活させ、さらに『発言者』『表現者』と思想表現の場を自前で作り上げ、そこでようやく「非行」を存分に発揮することができたのだと思う。

 西部氏は道徳や規範や憲法についても多くを語られた。そこにはもちろん、アメリカに魂を奪われ、自主独立の気概をなくしただらしない戦後社会への憤りが込められていただろう。
 しかしデラシネとして自らを規定され、道徳を語るときには、自分にはその資格がないと含羞の言葉を枕に置くことをいつも忘れなかったところを見ると、西部氏のなかには、秩序に対する強い渇望のようなものが潜んでいたのかもしれない。それはしばしば、「保守」という言葉が醸すイメージとは程遠いラディカリズムを含んで現われた。
 前掲書には「保守のかかえる逆説とは、熱狂を避けることにおいて、いいかえれば中庸・節度を守ることにおいて、熱狂的でなければならないということである」という言葉も見える。
 この荒ぶる魂は、現世でついに安らぎの場を得られなかったようである。その魂を受け継ぐと安直に言うまい。ただご冥福をお祈りするばかりである。