小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「ブルキニ」禁止の欺瞞性

2016年08月22日 21時02分54秒 | 政治
      





 まずは上の写真を見てください。
 浮き輪を持った女性が普通の服装で海岸から引き揚げていくだけの画像に見えます。
 ところがこの女性の着ているのは、イスラム教で許されている通称「ブルキニ」(ブルカとビキニの合成語)と呼ばれる水着なんですね。えっ、こんな服で泳げるのだろうかと思うのですが、ブルカと同じように女性が肌を露出することを禁ずる一部ムスリムたちの間では、これが当たり前ということです。
 ところで、すでに新聞報道でご存じの方も多いと思いますが、いまニース、カンヌ、マルセイユなど、リゾート地のあるフランスの10以上の自治体では、「政教分離」の原則という建前から、このブルキニの着用を認めないという判決や決定が出されています。カンヌでは、違反者は38ユーロ(約4300円)の罰金が科せられており、今月17日現在で、4人が罰金を払ったそうです。(毎日新聞8月19日付)
 フランスでは、ブルカやヒジャブ(頭から首にかけて巻くスカーフ。顔は隠さない)が学校や公共の場所で着用禁止とされていることは古くから知られています。前大統領のサルコジ氏が2010年に提案し、2011年には議会で圧倒的多数で可決されました。もちろん、「宗教の自由」に反するとか、人権侵害だとかの理由で反発の声も多く挙がっています。 同じような問題は、フランスばかりではなく、ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリアでも起きています。
 ドイツでは19日、大連立政権のうち、メルケル首相の保守系与党が自動車運転時や、公的機関、学校など公共の場の一部でのブルカ着用禁止を目指す方針を公表しました。移民らの社会統合を促すのが目的で、メルケル氏は「顔を隠す女性が統合される見込みはほとんどない」と強調したそうです。オーストリアでも移民統合問題を担うクルツ外相が18日、ブルカ禁止を図る意向を表明。ベルギーも公共の場でのブルカ着用を禁じ、オランダも一部の場で着用を禁止していますが、こうした動きがさらに広がる可能性もあるとのことです。(産経新聞8月21日付)
 みなさんはこの問題、どう思いますか。

「政教分離」の原則とはいったい何でしょうか。フランス革命から近代の自由・平等思想が定着していったとはよく言われることですが、これは言うまでもなく、人種、性、言語、宗教、政治的信条、文化的慣習などに関わらず、各人の法的な平等と、思想・信仰・表現の自由をどこまでも認めるという理念をあらわしたものです。だからこそ、現実政治や公共的な取り決めの場にいっさいの宗教的制約、強制、教唆、指導、判断などを持ち込んではならない――これが「政教分離」の原則であるはずです。この原則は、特定宗教に対する徹底的な寛容を貫くものでなくてはなりません。
 ところがムスリムに対するこの仕打ちはどうしたことでしょう。「政教分離」の原則を掲げながら、やっていることは、明らかにヒステリックな宗教弾圧です。同じ原則を、その理念とはまったく逆の政策に利用しているのです。フランス(ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリアも)政府や自治体は、その論理破綻に気づいているのでしょうか。自分たちが立てた原則を自分たちで壊しているのだということに。
 もしブルカやブルキニやヒジャブを公共の場でまとうことを禁止するなら、キリスト教の修道尼が僧服を着て街を歩くことも禁止すべきだし、カトリック教会やプロテスタント教会が寺院のファサードに十字架を掲げることも禁止すべきでしょう。いえ、教会という施設がそもそも誰が出入りしても自由という意味で、半公共的な施設ですから、この施設における宗教的行事なども禁止すべきだということになります。キリスト教のみならず、ユダヤ教のシナゴーグも、イスラム教のモスクも。

 フランスで、ヨーロッパで、何が起きているのでしょうか。
 もちろん、移民・難民が引き起こす文化摩擦やイスラム・テロに対する不安と恐怖が今回のような罰則まで伴う厳しい規制をもたらしていることは明瞭です。しかしそれなら、「私たちはキリスト教文化圏に属する市民を防衛する」とはっきり言えばいいのに、特定宗教に対する明らかな抑圧を、「政教分離」の原理によって正当化するのは、いかにも欺瞞的です。ただの排外主義を近代の普遍的価値のように言いくるめているのですから。これでは普通のムスリムが腹を立てても当然と言わなければなりません。その点では、新たなムスリム移民の制限を打ち出しているアメリカのトランプ大統領候補のほうがずっと正直です。
 こうした問題は言うまでもなく、率先してナショナリズムを否定し、域内グローバリズムの理念を掲げたEUが自ら招きよせたものですが、じつは根深い歴史を持っており、昔からヨーロッパの内部には、妥協しえない多くの民族どうしの対立、差別被差別、支配被支配、互いの潜在的な憎悪と恐怖の感情などが渦巻いていたのです。
 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にはあからさまなユダヤ人差別の実態が盛り込まれていますし、ヨーロッパが主戦場になった第一次大戦は、帝国主義国家どうしの植民地争奪戦が大きな原因の一つでした。また戦後のヴェルサイユ体制にも「戦勝国」フランスの長年にわたるドイツへの怨念が盛り込まれていましたし、日本がこの時提案した人種差別撤廃法案は、にべもなく却下されています。
 このヴェルサイユ体制の大きな歪みが、ナチス・ドイツを生みました。ヴェルサイユ条約後わずか20年で第二次大戦に突入し、そのさなかにユダヤ人強制収容と大虐殺とが行なわれました。多くの人々(特に戦後ドイツ人)は、悪者を特定することが贖罪願望を満たしてくれるので、ヒトラーだけを悪魔のようにみなしていますが、よく知られているように、フランスにもユダヤ人を売る人々はたくさんいましたし、当のユダヤ人でさえ同胞を密告する人が少なからずいました。また戦後、ポーランドでは、一部の人たちが報復のためにドイツ人を強制労働に駆り立てたと言われています。きれいごとを言っていても、有事にはこのように隠されていた本音が露出するのです。
 記憶に新しいところでは、2015年1月に起きたムスリム過激派によるシャルリー・エブド襲撃事件がありますが、このシャルリー・エブドという雑誌の内容がどれほど下品な形でムスリムを侮辱したものか、みなさんはご存知でしょうか。よろしければこれについて触れた以下の拙ブログ記事をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/9b41f69650ef0ef5018dab8b5e325872


 さてこのたびの報道には、あの硬直した理想主義が好きなドイツまでもが、ブルカ着用禁止の方針を決めたことが報じられています。つい昨年の八月に難民受け入れ大歓迎と大見得を切った当のメルケル首相が、わずか1年で「統合のため」を表看板にし、難民150万が引き起こす混乱と矛盾にたまりかねて、とうとう本音を吐いたと見るべきでしょう。これは、自分たちの文化に従うのでなければ、いっしょにやっていくことはまかりならぬと宣言したに等しいからです。でも今さら追い返すわけにいかないとすれば、どうやって同化政策を取っていくのでしょうね。私の見る所では、この「統合」は失敗するでしょう。そしてその時がおそらく「EU統合」の失敗がだれの目にも明らかになる時でしょう。
 それにしても、ハンガリーの防壁建造に象徴されるダブリン協定(難民は初めに到着した国が受け入れる)の実質的無効化、英国のEU離脱決定、かつてEU参加を熱望していたトルコの大混乱、そうして今回の「ブルキニ」禁止決定などを考え合わせますと、EUの空想的な理念が一歩一歩崩壊してゆく様をまざまざと見せつけられる思いです。そうしてこの事態は、グローバリズムというイデオロギーがいよいよ暗礁に乗り上げて、世界がナショナリズムを基調としたさらなる多極化の時代に突き進みつつあることを表わしています。世界の多くの人々は、ヒューマニズムやコスモポリタニズムの欺瞞性に気づき始め、正直に本音を語ろうとしているのです。これはよいことです。「ブルキニ」を禁止されたムスリムたちは、正当な抵抗に立ち上がるべきでしょう。

 わが国は、欧米由来のヘンなリベラリズムや空想的な地球市民主義にかぶれさえしなければ(困ったことに知識人や政治家ほどかぶれやすいのですが)、もともとナショナルなまとまりを維持できる条件に恵まれているのです。日本語という統一言語、島国という地政学的条件、天皇をいただく長い歴史を持つ文化的同質性等々。
 わが国で、牧師さんが僧服姿で歩いていたり、坊さんが袈裟を着て公共の場所に出入りしたりすることを禁止するなどということが考えられるでしょうか? おそらくムスリムが「ブルキニ」を着て湘南海岸で海水浴をしていても、誰も文句を付けないでしょう。この驚くほどの寛容さと安定感覚が何に由来しているか、よくよく考えてみましょう。
 それは欧米や中国のように、多民族どうしの軋轢と摩擦に悩まされてこなかったからです。彼らは長く悩まされてきたがゆえにこそ、EUとか、共産主義とかいった、維持困難な苦しい理念を掲げざるを得ないのです。私たちは、永く天皇の存在によってまとめられてきたこの文化の同質性のありがたさを、もっともっと自覚すべきだと思います。ゆめゆめ欧米を見習ってわざわざ低賃金競争や文化摩擦を引き起こす移民政策などに手を出してはなりません(残念ながらもう政府は手を出しているので、何とかこの動きを阻止すべきなのですが)。




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6 コメント

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移民政策 (根村恵介)
2017-06-30 13:06:55

「リベラル」は先進国の大手資本が貧しい国に進出して起こる「文化破壊」は批判するのに、貧しい国やイスラム圏から自由主義圏に大量に人が押し寄せることによる起こる「文化破壊」を認めようとしません。

例えば香港が中国に返還される時、香港人からイギリスに移住できないのは人種差別だという声があがったそうですが、イギリスの首相は絶対それを認めようとしませんでした。

客観的に言ってそれは正しかったのではないかと思います。
国民性も見た目も違う住民が大量に押し寄せたら、例えばレッチワースの閑静な街は、たちまち中国系のキンキラキンの街並みになってしまうでしょう。

アメリカでも、国籍をもらうためだけに出産にやってきて、周辺住民とコミュニケーションをとろうとしない中国系住民に批判が集まっています。
移民社会はそういうシビアな問題があるのでしょう。

私自身は国内だけですが色々な国の人と暮らしてきましたが、
それと国の方針がどうなのかはまた別です。

イヤなのは「リベラル」は能天気なコスモポリタニズム(?)から移民を肯定し、「保守」は単なる経済的ご都合主義から移民を肯定し、両陣営とも後々起こるであろう「現実からの復讐」
に無自覚だという点なのです。

国際化は必然でしょうが、どの国も移民社会、多文化主義、多民族国家を目指しているというわけではありませんね。
そう思っている人がいるとしたら、それはどこの国民も英語が喋れるべきという勘違いと似ているような気がします。
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よくもまあ… (HIROMITI)
2016-09-05 19:43:37
「ごもっともです」と、わかったよう顔を装いながら、自分たちの主張を正当化するために、平然と相手のいうことを骨抜きにしにかかかる。その下品なたくらみが、ものすごく不愉快です。
「この素晴らしい国」などといっても、あなたたちは「伝統」というものをどこまできちんととらえているのか、わかったものじゃない。
伝統は、いつの世でも「時代」という変化のもとでの「遭難者」であり、その濁流というか瓦礫の下から、けんめいに探し出し救い出すものなのですよ。あなたたちはそういう努力をしているのか。のんきに「この素晴らしい国」などと合唱して、とてもじゃないがしているとは思えない。伝統は、あなたたちのそのブサイクでのうてんきな顔や脳みそにあらかじめインプットされてあるものではない。探し出し救い出すものだ。

「国=くに」というやまとことばには「憂き世」というニュアンスがこめられている。その感慨とともに「くに」という言葉が生まれてきた。
「く」は「汲む」「組む」「苦しい」の「く」、つまり「ややこしい」とか「しんどい」ということ。
「に」は「煮る」「似る」の「に」、「接近」の語義、つまり、だんだんそうなってゆく、ということ。
世の中のしがらみにまみれて生きていればしんどくなるばかりだ、ということ。それが「くに」という言葉の語源です。
しかしだからこそ、人と人が他愛なくときめき合ってゆくことができれば、と願う。それはもう、ヨーロッパだろうとこの国だろうと同じで、人類普遍の願いだともいえる。ただ「伝統文化」としての
流儀作法の違いはあるとしても。

ヨーロッパの「エスプリ(機知)」という言葉に相当するやまとことばをあえて探すとすれば、中世に流行した数寄屋造りの「数寄(すき)」という言葉でしょうか。「垢抜けておしゃれな感覚」というようなニュアンスです。そしてそれは、ひとつの「即興感覚」も意味していた。まあ「連歌」とか「俳諧」というのは即興性の芸術で、「数寄の精神」の上に成り立っていた。「一期一会」が基本のコンセプトである茶の湯だってそうです。
で、その即興性の美意識だって、もとはといえば、人と人が他愛なくときめき合う関係になることを願う「憂き世=くに」の感慨からはじまっており、さらには「無常」とは「今ここ」しかないという世界観・生命観であり、それが「数寄」という即興性を尊ぶ美意識に昇華されていった。
つまりですよ、そういう美意識は、「エスプリ」の文化を持っているヨーロッパ人のほうがあなたたちよりもずっとよくわかっている、ということですよ。
世界中の誰もが、けんめいにそれぞれの地域の「伝統」を探し出し救い出そうと四苦八苦している時代に、あなたたちだけは呆けた顔をして平然と、すでにそれを手に入れているつもりでいる。それこそ、ただの「幻想」なんだよ。笑っちゃうよ。
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落ち着かない (HIROMITI)
2016-09-04 19:48:19
「落ち着いて読めば」だなんて、僕は落ち着いて読んでいないということですか。そしてあなたは、僕にいわんとするところを「落ち着いて」きっちり把握してくれたつもりなのですか。
ずいぶんご立派な読解力だこと。
それでもヨーロッパは「移民を受け入れる」努力はこれからもそれなりにしてゆくでしょう。イスラム以外の地域のものなら、それなりに受け入れられるのでしょう。多文化共生だかなんだか知らないが、それは、「幻想」でもなんでもない、ヨーロッパの歴史の伝統であり、彼らの本能のようなものなのですよ。えらそうに、なにが「幻想」か。
そしてイスラム移民のがわにも、それなりに共生のための努力はするべきでしょう。その努力をしないで、いたずらに自由だの権利だのを主張したって無理がある。
ニースの海岸で海水浴ができるなんて、移民としては成功者の部類でしょう。賃金がどうのということなんか関係ない。それだけで十分自由じゃないですか。だったらそこで、ヨーロッパ人と同じ格好をすることくらい、人としての最低限のたしなみの問題でしょう。
フランス人には、弾圧しているという意識なんかない。エチケットを守れ、といっているだけですよ。

「この素晴らしい国ををつくってきてくれた祖先に感謝しよう」だなんて、僕はぜんぜん思わない。この国がよその国より素晴らしいなんて、ぜんぜん思わない。
どちらかというとしょうもない国かも知れないけど、この国でしか生きられないだけです。
世界中、どこの国民だって「この国でしか生きられない」という思いはありますよ。そうやってそれぞれの国の伝統がつくられてきた。
どういう事情があるにせよ、移民として流れていったのなら、それなりに相手の国の習俗・習慣には敬意を払うしかないじゃないですか。なのに、イスラムの人々はそれをしなさすぎる。そういう歴史的ないきさつがあるわけで、スペインもハンガリーもギリシャも、イスラムの国にされてしまった歴史があるのだもの、それなりに警戒もするでしょう。
あなたの言われる20人が100人になって、国が二つに分かれてしまってもいいのですか。そうやってイスラムのコミュニティで独立すると言い出したら、戦争になりますよ。
フランスには、ヨーロッパ中から移民がやってくるけど、イスラムほどあからさまなコミュニティはつくらない。それはイスラムほど差別されていないということもあるけど、まずはヨーロッパ的な都市生活の作法の伝統を共有している、ということがある。
ヨーロッパ的な都市生活のエスプリということに関しては、僕は、大いに敬意と興味があります。
現在の状況は、まあ、いろいろ大変だなあ、と思うばかりです。
僕は、EUを「反面教師」になんかして
いない。なんとか移民をつつがなく受け入れる方策はないものかと模索している彼らの努力に、それなりの「敬意」を持っている。
「移民を受け入れる」ということは、人間性の自然・本質に根差した、いわば人類の悲願であり理想なのですよ。
しかしそれを実現するためには、現実問題として様々なハードルがあるし、移民のがわにもそれなりのエチケットを守る必要がある。
困難であることなんかわかっていますよ。だからといって、「拒否」すればいい、というだけではすまない。人間性の自然・本質の問題として。
悪いけど僕は、あなたたちのような傲慢で自意識過剰の思想を持つことなんかできない。あなたたちと同類になんかなりたくない。
僕の書いたことをろくに読みもしないで、あんまり、人をバカにしないで下さいよ。なにが「落ち着いて読めば」か。
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落ち着いて読めば…… (STO)
2016-09-04 10:46:51
 HIROMITIさんの仰ることはごもっともです。私も「無条件の寛容」は存在しないと思います。しかし落ち着いて小浜先生の記事を読めばHIROMITIさんと言わんとしている事は殆ど同じだと感じます。
 ブルキニの禁止はイスラム教徒に対する弾圧である事に違いない。そしてその心根にはイスラム教徒と仲良くするのは無理だ! という感情があるのは明らかです。
 しかしです。フランス人100人の中にイスラム教徒1人が新しく入る。これはいずれ同化していくでしょう。ところがこれが20人のイスラム教徒となったらどうでしょう。当然彼らはイスラム教の仲間達と糾合してイスラム圏の文化や独自のコミュニティを形成していくのは必然ではないでしょうか。いうなればフランスの中にイスラムの国が出来るようなものです。またイスラム教徒の所得水準を鑑みれば「フランスは我々を安い労働者、有り体にいえば奴隷のようにしか見ていない」と考え反感を抱きフランスに反発するのは無理からぬ話です。
 以上のようにEUの理念である「多文化共生主義」の幻想、移民を受け入れての共存共栄など不可能であるということを如実に物語っています。
 しかし相変わらず「多文化共生」の建前を掲げて一方で「政教分離」と難癖をつけてイスラム教徒を弾圧しているフランスの欺瞞を浜崎先生は指摘している。
 だからこそイスラム教徒は権利を主張して対抗しフランスはいい加減、幻想を捨て本音を言えばいい。ということではないでしょうか?
 日本はEUを反面教師にして移民は絶対に拒否しましょう。そしてこの素晴らしい国を作ってきてくれた祖先に感謝しようというのは非常に共感いたします。

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追伸 (HIROMITI)
2016-09-01 18:35:29
日本人の常識からしたら、それはとても失礼な態度であり、移民として受け入れてもらった身でよくそんな厚かましい態度がとれるものだ、と思う。日本人なら、裸の心のまま相手の胸の中に飛び込んでゆく。まあ明治の留学生は、そうやってちょんまげも刀も着物も捨てて、つまり自国の文化を捨てた裸一貫の心で飛び込んでいったから、ヨーロッパ人から受け入れられ、その先進文明をいち早く吸収してゆくことができた。日本人の心は可塑性を持っているが、イスラム教徒=中東人にはそれがない。
「ブルカ」や「ブルキニ」を手放さないイスラム移民は、手放せない強迫観念があるのだろうが、いくら何でも狷介すぎると思われても仕方がない。金は欲しいけど、ヨーロッパの文明や文化にはなんの興味もない、といっているのと同じだと受け取られても仕方ない。ヨーロッパ人からしたら、自分の家の座敷を土足で踏み荒らされているような気分になってしまう。
日本人の心の可塑性、無原則の生き方、日本人には「明日のことはわからない」という気分で流れさすらってゆくという精神風土の伝統があるが、中東人=イスラム教徒は、いったんつくられてしまった原理原則はもう死ぬまで変えられない、という風土の歴史を生きてきた。砂漠では原理原則が揺らいだら生きられないということもあるのだろうが、それ以前に、原理原則を共有しながらどんどん排他的になってゆくことによって集団の結束を高める、という伝統がある。そうやってその地に人類最初の文明国家が生まれてきた。彼らは、そういう国家制度や宗教制度を人類最初に持った人々だった。人類拡散の通り道であるそこでは、どんどん人が集まってきて、原理原則を共有しない邪魔な人間はどんどんヨーロッパやアジアに追いやった。そうやってイスラム的な原理原則がどんどん強化されていった。
とすればヨーロッパは、原理原則を持たない人間どうしが集まってきて新しい原理原則をつくりながらそこに国家をつくり上げていった、ということになる。というか、もともとみずからの生まれ育った土地の原理原則を捨ててそこに集まってきた人々だったわけで、ひとまず自分の原理原則を捨ててときめき合い連携してゆくという文化を育ててきた。ヨーロッパのオーケストラや合唱は、まさしくそういう「自分を捨てて全体の調和に献身してゆく」という関係の上に成り立っている。そういう文化の伝統を持っている人々がイスラム移民の「ブルカ」や「ブルキニ」を手放さないという唯我独尊の態度に苛立つのはもうしょうがないことで、「宗教の自由」以前の「人としてのたしなみ」の問題でしょう。
人間性の自然の問題だ、と言い換えてもよい。
生きものの身体や生態の進化だろうと人類の文化の発展だろうと、原理原則なんか捨てた出たとこ勝負で起こってきたのですよ。そういう裸一貫の心の「即興性」を持たなければ、人と人のときめき合う関係なんかつくれない。
あなたたちは、狷介すぎますよ。日本人でありながら、<「ブルキニ」を禁止されたムスリムたちは、正当な抵抗に立ち上がるべき>だなんて、よくそんなことがいえるものだ。そんな自意識過剰の自己主張ばかりぶつけ合っていたら、世も末ですよ。たとえそれが「正当」であっても、日本人の美意識の伝統はそれを慎む。「正義」や「正当」であればどんどん主張するべきだなどといっていたら、人と人の心にしみる関係なんか築けない。そういうことを飲み込んでいたわり合い察し合ってゆく「水のように淡い関係」こそ、この国の歴史風土であろうと僕は思うのですけどね。
正義や正当性であれば主張してもよい、主張するべきだ、なんて、戦後民主主義がもたらした悪弊にすぎない。
正義や正当性が、何ほどのものか。
生きてあることなんか無意味で無価値だ。この国ではひとまずその「嘆き」を共有しながら他愛なくときめき合ってゆく歴史を歩んできたわけですよ。
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人としてのたしなみ (HIROMITI)
2016-08-25 14:07:50
日本列島には、「郷に入らば郷に従え」という諺があります。日本人の「寛容性」は、そういう合意の上になっているのであって、ただ無条件に寛容であるのではない。
村にやってきたよそ者が村の一員として認められるまでには、いくつもの通過儀礼を果たしながら、何年もかかるのです。農作業や災難救助や祭りなどでよそ者としてあつかわれながらというか部外者の立場で黙々と無償の手伝いをしてゆかねばなりません。たとえばお神輿を担がせてもらえなくても酒などの寄付は欠かさないとか、冠婚葬祭のときには人のいやがる一番つらい仕事を引き受けるとか、とにかく、前の村ではこのようにしてやってきたから、というような理屈はいっさい通らないのです。そういう作法を当たり前のように引き受けてゆかなければ「同化」することなんかできない。そんなことはおそらく世界中どこでも同じでしょう。
アフリカのサバンナの原住民の写真を撮りに行った女性カメラマンは、自分も素っ裸になって「同化」していった。それはもう、人としてのあたりまえの作法でしょう。
イスラム教徒がイスラム教を手放さないことは勝手だが、よその国に来たらよその国の作法に従うという「たしなみ」というか「常識」のひとつくらいはあってもいいでしょう。なのにヨーロッパは、2000年前のユダヤ教徒以来、そういう中東人の傍若無人の態度に悩まされてきた。それでは人と人の親密な関係なんか築けない、と思うのは、当たり前の人情というものです。たとえ人のいやがる低賃金の仕事を引き受けてもらえるというメリットはあるとしても、ヨーロッパ人にしかできないような「移民を受け入れる」という寛容を土足で踏みにじられている心地になるのはとうぜんです。それは、見知らぬものどうしが出会ってときめき合う、というヨーロッパの都市文化の伝統に対する蹂躙です。「お前たちも少しくらいは<郷に従う>たしなみを持てよ」といったって、何をあなたごときに上から目線で批判されねばならないのか。彼らは彼らなりにそうした中東文化との軋轢という厳しい歴史を生きながら、それでもそれなりのヨーロッパ的伝統文化を守り築き上げてきたのですよ。その伝統文化に対する敬意というものが、あなたにはないのですか。えらそうに、EUは早晩破綻する、などと言い放っていいのですか。それが存続する可能性が1パーセントもないと言い切れるのですか。そのなりゆきをいささかの友情とともにハラハラしながら見守るということが、あなたにはなぜできないのですか。よくそんな傲慢なことがいえるものだ。その態度のどこに、人としてのたしなみがあるというのか。いっちゃなんだけど、天皇はそんなえらそげな視線など持っていない。そんなえらそげに他人を裁くようなことばかりいっていて、天皇に対して恥ずかしいと思わないのですか。天皇は、誰も裁かない。この世界のすべては赦されている、という態度に徹している。天皇は、あなたたちのような民族主義者ではない。民族主義者でいたら、世界中からやってくるお客をもてなすということなんかできない。あなたたちよりもヨーロッパ人のほうが、ずっと天皇の心に寄り添っている。この国では、天皇を祀り上げる民族主義者ほど天皇の心から乖離しているというパラドックスがある。
われわれは、自分があなたたちと「同質」だとは思いたくない。人としてのたしなみとして。
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