6月5日、奄美空港で、関西空港に向かう超格安航空バニラ・エアの搭乗の際、下半身不随の障害を持つ木島英登さんが、車椅子ごと同行者に担いでもらってタラップを昇ろうとした時、バニラ・エアーのスタッフから止められたため、腕の力でタラップを這い上りました。これに対してもスタッフは制止したそうですが、木島さんはそれにかまわず昇ったそうです。 バニラ・エアは、「不快にさせた」と謝罪し、今後車椅子でも搭乗できるように設備を整えると発表したとのこと。
私はこのニュースを、たまたま6月28日の夕方、カーラジオを通してNHKの報道番組で知りました。その時は、アナウンサーを含めNHKに出演していた三人が、障碍者差別解消法などを持ち出して、バニラ・エアを総攻撃するような調子でした。
ただし、車いすで搭乗する場合は前もって連絡することになっているというバニラ・エア側の言い分については一応報じていたように記憶しています。
私は現場のやりとりなどを直接見たわけではありませんので、その時は明確な感想を抱いたわけではありませんが、何となく事の成り行きについて、NHK出演者の発言だけでは割り切れない違和感を抱きました。
さてこれを書いているのは、7月1日の深夜ですが、この二、三日の間に、このネタ、だいぶ炎上しているようですね。
テレビ局でも取り上げられ、木島さんご本人も出演しているようです。
FBを通して以下のメルマガを読みました。個人的な印象では、かなり信頼のおける記事です。
http://netgeek.biz/archives/98767
この記事によると、木島さんは、事前連絡が必要なことを知っていたらしい。しかも過去に四回も事前連絡なしで搭乗拒否された経験を持ち、「面倒くさいから連絡しない」と豪語していたそうです。
また木島さんは、自分が「プロ障害者」であると認めているとのこと。
厄介な問題ですね。
ところで、御存じない方も多いと思いますので、お伝えしておきます。
不肖私は、18年前に『「弱者」とはだれか』(PHP新書)という本を書いて、いわゆる「社会的弱者」と呼ばれる人々の一部が、弱者であることを特権として利用している問題を批判的に取り上げました。
この人のように、迷惑をかけながら名前を売ってビジネスにつなげるというのは困ったものだと、当時から感じていたからです。
これを組織的にやってきたのが、一部の団体です。それについても詳しく書き込んでおきました。
また、乙武洋匡氏の『五体不満足』(講談社)についても、そのいいところは認めつつも、おおむね批判的に論説いたしました。
しかし一方では、これらの人々を批判するだけではなく、特権を特権として受け入れてしまう側にも問題があるということも指摘したつもりです。
「弱者」という記号を振りかざして理不尽な要求がなされたときに、その「権威」に怯えて、きちんと反論せずに要求に従ってしまう「事なかれ主義」はおかしい、と。
問題は変わっていないようですね。それどころか最近では、欧米における過剰な「人権」尊重によるPC(ポリティカル・コレクトネス)のように、その窮屈さ、硬直ぶりは深まっているように思われます。日本もその波を大いにかぶっていますね。
異種の人々どうしのトラブルはなるべくないほうがいい。それは誰もが認める所でしょう。
では、社会的にカテゴライズされた人々とその「しるし」を持たない人々との間のバリアをできるだけ低くするには、どうすればいいか。
何かと言えば「人権、人権」と騒ぎ立てる人や団体が力を持った時、PCのような政治的な建前による意思決定でこの解決を図ろうとするのはよい方法ではありません。なぜなら、人々の現実の生というものは、たとえカテゴライズされていなくても、ひどい被害に遭っていることがありうるし、逆にカテゴライズされていても、何の被害感覚も感じていないことがありうるからです。
政治的な建前の言葉は、けっして人間の生の複雑多様な局面を覆い尽くすことができません。
そのため、政治的な建前が過剰にはたらくと、必ず、これに対して表ざたにできない不満や怨念の感情が蓄積してゆきます。
こうした問題を少しでも軽くするには、次の心構えが大切と思われます。
①各人が日常生活上で接触体験を深め、「慣れと親しみ」の関係が自然にできるようにすること。
②「弱者」と呼ばれる人々の多様性を、できるだけ個々の現実に即して理解すること。障害者の場合ならば、どこが不便でどういうサポートや技術が要請されるかを、なるべく多くの人がクールに認識すること。感情的対応は、正負いずれの場合にも、何も解決を導きません。
ちなみに私は、大学で乙武洋匡氏の『五体不満足』(完全版)を読ませて感想を書かせていますが、批判すべきところを探せと事前に言い渡してあるにもかかわらず、素朴に感動してしまう学生が多くて、毎年やれやれと感じています。大学のレベルの問題もあるのですが(笑)。
障害者やLGBTについては、本当に晴れがましく輝かしい理念は立派だけれども、「この生活が苦しい時にあんたらにばっかり気を使ってらんねーよ!!」という言い分がある程度のリアリティを持ってしまったところに不幸があるように思います。
乙武さんなど、数年前、イタリアンレストランで近い騒動を起こして、その時は結構叩かれていましたよね。
そうした「穢れ」を引き受けられる乙武さんの存在は、そんなに嫌いではないのですが……。
お久しぶり。
まあ、私の大学の例は個別例ですから、一般化できないのですが、乙武氏は、色々あって、いま全体としてはかなりくすんだイメージになっていると思います。
LGBTにしろ、障碍者にしろ、何でもビジネスになる時代ですから(というよりも、そういう発想をするのが人間の本性みたいなものですから)、そのこと自体をどうこう言うつもりはないのですが、変異=特権=傲慢な権威主義の跋扈という成り行きを受け入れる社会のあり方が気になります。つまり、PC遵守のような過剰な「人権」主義が、かえって社会の不安定要因を生み出していることが問題なのだと思います。
小浜さんが「ここの現実をまずよく見よう」ということをおっしゃっていますが、PCは言わば思考のショートカットですよね。
ショートカットしたくなる気持ちはわかるのですが、それをせずに相手を見る、或いはそれができないのであれば「いや、俺は知らん」と言える、言ってもいいのだと判断することも大切だと思います。