小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(13)

2014年03月18日 23時48分47秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(13)


 コルトレーンマイルスと、二人の巨人を扱って、少々疲れたというのが本音です(笑)。この人たちはやはりハードですね。じつは骨休めのつもりで、ひそかにスタン・ゲッツジョアン・ジルベルトの「ゲッツ/ジルベルト」などを聴いておりました。
 モダンジャズの黄金時代である50年代末から60年代初頭は、ブラジル音楽の新しい流れであるボサノヴァが世界的に広まった時代でもあり、特にソフトなテナーを吹くスタン・ゲッツと、ギター、ヴォーカルのジョアン・ジルベルトとの共演になる「ゲッツ/ジルベルト」は、アメリカで爆発的な人気を呼びました。ジャズとブラジル音楽の新しい結合と言えるでしょう。もっともこのアルバムがあれほど人気を博したのは、多分に、ジョアンの妻、アストラッドが英語で歌った「イパネマの娘」が大ヒットしたことによるところが大きいようです。
 マイルスやコルトレーンなどのようなジャズ本道における芸術追求型の流れに対して、彼らの音楽は、けだるさと軽さとを備え、誰もが口ずさみたくなるような心地よい調子と旋律を備えています。バリ島か何かに旅行して、マッサージでも受けながらリラックスした気分に浸って聴く、そんな中流階級好みの雰囲気を持っています。
 では「コルコヴァード」を聴いてみましょう。

ゲッツ/ジルベルト   コルコヴァード


 おくつろぎいただけましたか? だいぶ肩もほぐれたことと思います。
 これまで紹介してきた曲とずいぶん雰囲気が違いますね。まあ、私などは、ことジャズに関しては、原理主義的な傾向が強いので、こういう曲もたまにはいいと思うものの、「これはジャズじゃない、ジャドゥだ!」と言いたいところもあります。
 そのこととは別に、ボサノヴァはアメリカでは、この後、かなり衰退してしまったそうです。そのわけは、ジャズの隆盛と、ビートルズやローリングストーンズなどの上陸によるロックの支配との間に挟まれて、束の間の息抜きのような位置づけになってしまったということらしい。日本ではいまでも人気がありますけれどね。一本気のアメリカ人と何でも吸収する日本人との差かもしれません。

 では眠気覚ましに、オーソドックスなジャズを一曲。
 以前、このシリーズを始めたころに、ソニー・ロリンズを紹介しましたが、そのとき、You Tubeでつかまえることができずに曲名のみ記したことがありました。素晴らしい演奏なのに悔しい思いをしました。今回うまくキャッチできたので、それを聴いてください。「ワーク・タイム」から「イッツ・オーライト・ウィズ・ミー」。パーソネルは、レイ・ブライアント(p)、ジョージ・モロウ(b)、マックス・ローチ(ds)。特に終盤のロリンズとローチの何ともスリリングなかけあいが聴きものです。

Sonny Rollins Quartet - It's Alright with Me


 さて、態勢を立て直して、再びハードな本格論へ(笑)。
 60年代初頭以降、ジャズの本流は規範をどんどん崩していく方向に進みます。先に紹介したマイルスのモード奏法はその先駆けですが、これをさらに崩してフリージャズへの先鞭をつけた一人がコルトレーンでした。
 しかし、じつをいえば、ほとんど同じ時期にそういう方向への歩みをすでに進めていた人たちがいます。エリック・ドルフィー(as,fl,bc)、オーネット・コールマン(as)、セシル・テイラー(p)、アルバート・アイラー(ts,ss)といった人たちです。
 ところで私は、ここに挙げた四人のなかで、エリック・ドルフィー以外の三人をあまり聴いてきませんでした。この三人には、初めから自分の心を揺さぶるものが感じられなかったからなのですが、いま少しばかり聴きなおしてみると、やっぱり興味が持てない点では変わりありません。自分なりに考えてみると、どうも次のように言えそうです。
 この三人の演奏に共通していえること。それは、はっきり言って一本調子で退屈だということです。規範や制約を思い切り壊して、自分ひとりの表現したいことだけを勝手に吹いたり弾いたりして蜿蜒とやっています。その異常な熱意はわかるものの、サービス精神というものがそもそもまったくなく、聴衆はちっとも楽しめません。長い曲のどの部分を拾ってみても、構成もへったくれもなく、ただ同じ調子しか聴こえてこないのです。
 音も意識的にダーティなところを狙っているし、調子のよさとか、リズミカルな乗りとか、しっとりくる情緒とか、間の味わいとか、物語的な展開といったものがおよそ感じられません。「フリー」であることがかえって音楽的な良さとして生きていないのだと思われます。つまり「マスターベーション」なのですね。「ただやりたいようにやる」というふうにしてしまうと、音楽はどうもマスターベーションになってしまうようです。
 まあ、三人のなかではオーネット・コールマンが一応形になっていて、かなりマシだと言えるでしょうか。しかし彼は、なんだってバイオリンやトランペットに手を出してヘンなことを始めたんだろうか。一種のクソマジメなんでしょうね。
 ここには例示したくもないので掲げませんが、私の感想が間違っていると思う方は、どうぞ上記三人の演奏を各自試聴してみてください。
 私の主張に、二つだけ傍証のようなものを付け加えておきます。
 一つ。彼らのとった方向が、その後、豊かな発展を見て、多くの聴衆や演奏家の間に根付いていった形跡は見られない。たとえば日本のジャズピアニスト・山下洋輔は、セシル・テイラーのピアノに大きく影響を受けたと言われていますが、山下さんのピアノは、その激しさの点では共通しているものの、はるかに調和的で、音楽の伝統を重んじており、音も美しく、劇的な展開の妙も心得ているし、曲としての完結性も備えています。むしろ彼はショパンなどのクラシック・ロマン派的な感性の持ち主だと思います。
 二つ。この三人の演奏は、他の楽器演奏者との共演によっていいものを作ろうという気がどうもないようで、ジャズの醍醐味である丁々発止のやりとりがほとんど考えられていない。なので、周りの演奏者は彼らにしかたなく付き合っているふうです。もちろんこういう音楽を追究しようという合意はあるのでしょうが、実際には、だいたいがただの伴奏者にすぎない。あるいは、共演する楽器には、もともと固有の特徴と性格があるために、無理に合わせたちぐはぐな印象だけが残ります(ただし、オーネット・コールマンに関しては、ポケット・トランペットのドン・チェリーと共演したものはよく息が合っています)。
 要するに、彼ら三人は、それぞれあまりに孤独なのですね。
 こういうことを言うと、フリージャズや前衛ジャズファンからは、「それはお前がわからないだけだ。彼らは音楽に対するお前のようなステロタイプな鑑賞の仕方をこそ打ち破ったのだ」などという声が上がるのでしょうが、しかし私はそれでかまわないと思っています。私はこの三人に代表されるフリージャズのファンの人たちにあえて言います――「王様は裸だ」と。
 ひとこと余計なことを付け加えると、一部で(ほんの一部で)フリージャズがもてはやされていたころ、ポストモダン紹介本を出してニュー・アカデミズムの旗手と騒がれたAA氏が、アルバート・アイラーをしきりに称揚していました。本気かね、と私は思いましたが、音楽に関してまんざら素人でもない氏の発言に、頭でっかちでエキセントリックなものを好む若者、ことに一部東大生などは、さぞ騙されたことでしょう。若い時はなかなか素直になれないものですが、音楽を聴くときは、素直な心になりましょうね(これは自戒の弁でもあります)。

 ところで、先にエリック・ドルフィーだけを脇にのけておきましたが、彼だけは、個性、技量、芸術性、迫力において抜群であり、そもそも「フリージャズ」といったカテゴリーに収まらないものを初めから持っていました。また他のプレイヤーたちとのアンサンブルの世界もきちんと創り出しています。堂々と一家をなしているという感じなのですね。現に彼の演奏は、いまでも敬意をもって聴かれることが多く、多くのジャズファンに伝説的な力を強く及ぼしています。
 彼はアルトサックスとフルート、それにベースクラリネットという、あまり使われない面白い楽器の三つを吹き分けるのですが、ことにベースクラリネットでの演奏は他の追随を許しません(というか、ジャズ・ミュージシャンで、ほかにやっている人を知りません)。
 彼のソロには、たしかに不協和音や極端に変化する音階、調子はずれのような奇矯なフレーズが多いので、初めて聴く人にはなかなかなじめないかもしれません。しかし、耳慣れてくると、この人の音楽は、モダンジャズの伝統を確実に引き継いでおり、しかもそのうえで独特の境地を切り開いているということがわかってくるはずです。モダンジャズの伝統を引き継いでいるということは、言い換えるとチャーリー・パーカーの嫡出だということです。けっしてただの「フリー」ではないのです。
 それでは、とっつきやすいところから、フルートの美しい演奏で「ファー・クライ」所収の「レフト・アローン」。この曲は、以前、マル・ウォルドロン(p)とジャッキー・マクリーン(as)のもので紹介しましたね。ビリー・ホリデイの伴奏者だったマルが、ビリーを偲んで作った曲です。浪花節という形容をしましたが、これをドルフィーがどう処理しているか、じっくりとお聴きください。パーソネルは、ジャッキ・バイヤード(p)、ロン・カーター(b)、ロイ・ヘインズ(ds)。

ERIC DOLPHY, Left Alone(+ 再生リスト)


 次に、同じく「ファー・クライ」から、ドルフィーのオリジナルで、「ミス・アン」。ここでドルフィーは一転して速いテンポでアルトを吹いていますが、彼はこの曲がお気に入りだったと見えて、何度も吹き込んでいます。事実、この曲には、彼らしさがとてもよく出ています。先に述べたように、一見奇矯に聞こえますが、それは奇をてらった実験的な試みなのではなく、ごく自然な表現欲求から出ているのです。そうして、聴いている方もいつしかこの雰囲気に釣り込まれ、何というか、一緒にお祭りで踊っているような気分にさせられるのですね。
 パーソネルには、若手天才トランぺッターのブッカー・リトルが加わります。彼についても、後ほど語りましょう。この演奏では、終盤でのドルフィーとのかけあいで、踊りながら会話をしているような絶妙な呼吸の合い方が聴かれます。

ERIC DOLPHY, Miss Ann


 もう一曲、アルトサックスでの演奏。「アット・ザ・ファイヴ・スポット1」から「ファイア・ワルツ」。ファイヴ・スポットというニューヨークのジャズクラブでのライブですが、これはドルフィーの曲のなかでは現在最もよく聴かれているようです。
 なお2週間続いたと言われるこのライブ演奏は、ドルフィーとブッカーの名を不朽のものにした歴史的な事件であり、現在3枚のアルバムに収められています。
「ファイア・ワルツ」は、マル・ウォルドロンのオリジナルですが、この演奏では、ドルフィーとブッカーのソロは、どちらも言葉を話しているような趣があります。ドルフィーのソロにはもともとそういう一種知性的なところがあり、純粋に美的な見地から言えば疑問符が付くのかもしれません。しかし、「それでさ、あのね」とか、「だからよう、こうなんだよ!」というように、いろいろな抑揚でしゃべっていると考えると、思想以前の「言いたいこと」(詩的表出)がこちらによく伝わってくるように思います。ここでのブッカーもそうしたドルフィーのプレイに多分に影響されているのでしょう。
 パーソネルは、二人のほかに、マル・ウォルドロン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、エディ・ブラックウェル(ds)。
 生演奏なので、マルのソロなど、やや冗長な感じが無きにしも非ずですが、そこはひとつ、クラブでいままさにプレイしているという場面が持つ臨場感を、想像力で補ってみてください。

Eric Dolphy- Fire Waltz- @5 Spot 1961


 じつはこのファイヴ・スポットのシリーズでは、私自身が最も高く評価している曲があります。ですので、次回もドルフィーとブッカーについて語りたいと思います


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