書き言葉表現の基礎訓練を
埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2015年3月発表】
日ごろ、いまの日本の初等から中等にかけての国語教育には欠陥があると思っています。それは思考を書き言葉で表現する訓練の不足です。要するに適切な作文教育をやっていないということなのですが、この言い方のなかには、私なりの根本的な注文が含まれています。
どんな表現行為・制作行為にも、それが他人の目に触れてそれなりの評価を得るためには、一定の基礎訓練過程が必要とされます。たとえばクラシックピアノが弾けるようになるためには、バイエルやツェルニーなどの基礎課程をくぐらなくてはなりません。この課程を克服してようやく、個性的な表現をするための出発点につくわけです。表現における個性など初めから具わっているわけではありません。
ところがここに一つだけ不思議な例外があります。書き言葉表現です。
書き言葉をまともに使いこなすためには、ほかの分野と同じような基礎訓練過程がぜひとも必要なはずなのに、そういう訓練を本格的に授けるためのメソッドが確立されているでしょうか。せいぜい、小中高の限られた国語の時間のほんの一部を使って作文指導をするくらいです。その指導なるものも、テーマを与えて、「自分の思った通りに自由に書きなさい」と指示するだけでしょう。おそらく忙しい公教育の教師には、生徒一人一人の表現のつたなさをテニヲハの段階から具体的に指摘して添削指導を繰り返し、まともな日本語に仕上げさせるための指導を行うだけの力と余裕などとてもないでしょう。
そもそも「思った通りに自由に書いた」文章が人々の厳しい評価に耐えるためには、その前に、ごく基礎的な日本語表現作法が身についていなくてはなりません。その教育と指導をおろそかにして、人にきちんと思想や感情や論理を伝えることなどできるはずがないし、相手の問いが何を要求しているのかを正確に把握できるはずがないのです。
このおろそかさがはびこってしまったのには、次の二つの理由が考えられます。
①戦後教育が「自由と個性」なる謳い文句を過度に尊重してきた。
②多くの人が、言葉は思想を伝えるための単なるツールであるという思い違いをしている。
②の考えがはびこると(現にはびこっているのですが)、人はだれでも思想としては成熟したものを持っているがただツールが未熟なためにそれを表現できないのだという幻想に支配されます。これは倒錯です。
思考は手を動かさなければけっして生きたものとはなりません。比喩的に言えば、人は頭と手の間で思考するのです。だからこそ評価に耐えるだけの思考力を鍛えるためには、初歩から順に段階を踏んで「書く」という行為を絶えず試みなければならないのです。
私は何も「よい文章」とか「名文」の書き方を覚える必要があるなどと高級なことを言っているのではありません。できるだけ多くの日本人が普通に通用する文章を書けるようになり、人が書いている文章の趣旨を正確に冷静に受け止めるようになってほしいのです。僭越ながら私は、そういう訓練を行うための年少者対象の塾でも開こうかと妄想している最中です。
埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2015年3月発表】
日ごろ、いまの日本の初等から中等にかけての国語教育には欠陥があると思っています。それは思考を書き言葉で表現する訓練の不足です。要するに適切な作文教育をやっていないということなのですが、この言い方のなかには、私なりの根本的な注文が含まれています。
どんな表現行為・制作行為にも、それが他人の目に触れてそれなりの評価を得るためには、一定の基礎訓練過程が必要とされます。たとえばクラシックピアノが弾けるようになるためには、バイエルやツェルニーなどの基礎課程をくぐらなくてはなりません。この課程を克服してようやく、個性的な表現をするための出発点につくわけです。表現における個性など初めから具わっているわけではありません。
ところがここに一つだけ不思議な例外があります。書き言葉表現です。
書き言葉をまともに使いこなすためには、ほかの分野と同じような基礎訓練過程がぜひとも必要なはずなのに、そういう訓練を本格的に授けるためのメソッドが確立されているでしょうか。せいぜい、小中高の限られた国語の時間のほんの一部を使って作文指導をするくらいです。その指導なるものも、テーマを与えて、「自分の思った通りに自由に書きなさい」と指示するだけでしょう。おそらく忙しい公教育の教師には、生徒一人一人の表現のつたなさをテニヲハの段階から具体的に指摘して添削指導を繰り返し、まともな日本語に仕上げさせるための指導を行うだけの力と余裕などとてもないでしょう。
そもそも「思った通りに自由に書いた」文章が人々の厳しい評価に耐えるためには、その前に、ごく基礎的な日本語表現作法が身についていなくてはなりません。その教育と指導をおろそかにして、人にきちんと思想や感情や論理を伝えることなどできるはずがないし、相手の問いが何を要求しているのかを正確に把握できるはずがないのです。
このおろそかさがはびこってしまったのには、次の二つの理由が考えられます。
①戦後教育が「自由と個性」なる謳い文句を過度に尊重してきた。
②多くの人が、言葉は思想を伝えるための単なるツールであるという思い違いをしている。
②の考えがはびこると(現にはびこっているのですが)、人はだれでも思想としては成熟したものを持っているがただツールが未熟なためにそれを表現できないのだという幻想に支配されます。これは倒錯です。
思考は手を動かさなければけっして生きたものとはなりません。比喩的に言えば、人は頭と手の間で思考するのです。だからこそ評価に耐えるだけの思考力を鍛えるためには、初歩から順に段階を踏んで「書く」という行為を絶えず試みなければならないのです。
私は何も「よい文章」とか「名文」の書き方を覚える必要があるなどと高級なことを言っているのではありません。できるだけ多くの日本人が普通に通用する文章を書けるようになり、人が書いている文章の趣旨を正確に冷静に受け止めるようになってほしいのです。僭越ながら私は、そういう訓練を行うための年少者対象の塾でも開こうかと妄想している最中です。
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