小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する21

2015年05月07日 18時10分01秒 | 哲学
日本語を哲学する21




「沈黙」という概念を、会話の中で実際に黙っていることに限定しなくともよい。それは、ある言い回し、特に慣用的な表現の周辺を黒子のような役回りで漂っていることがあるし、また、文字表出で埋め尽くされている文章表現、特に文学において、美学的・芸術的な観点から見てきわめて効果的な役割を演じていることがある

 たとえば、これはすでに第Ⅱ部で予定している日本語論の領域に踏み込むことになるが、「しょうがない」という言葉は、日常生活でいろいろなニュアンスを込めてごく頻繁に使われる。

「しまった、財布、忘れてきちゃった!」
「なんだ、買えないじゃないか。しょうがないな」


 この場合は、困惑と非難・叱責の意味合いが色濃く出ているだろう。

「彼女に振られちゃってさ」
「しょうがない。あきらめるしかないな」


 この場合は、この先打つ手がないことがかなりはっきりしているので、断念を勧めつつ、そこに慰めの意味も込めている。

「大事な仕事が入っちゃったんで、そっちを優先させないと」
「しょうがない。ぐずぐずせずに連絡すれば」


 この場合は、他に道がないので早く選択の決断をすべきだと促している。

「あそこは道路がまだ通っていないからしょうがないんだよ」

 この場合は、抵抗の存在による行動の不能を表現している。

「今度入社してきたA、使えねえよ。まったくしょうがないやつだ」

 この場合は、その対象とされている人物やモノに価値がないことに対して、憤りや突き放しの気持ちが込められている。

「あの時、もう少し私にお金があったらね」
「そんなこと言ったってしょうがないだろ。君には君の事情があったんだし、それにもう過ぎたことだ」


 この場合は、「後悔先に立たず」の教訓を説いている。

 こうしてこの「しょうがない」という言葉は、日本的な諦念の思想を中核に据えながら、時と場合に応じて、過去を振り返らず未来の行動へいち早く気持ちを切り替える促しを表現するかと思えば、抵抗があるために克服不能であるという意味合いも持つし、また未練や憤りなどの感情表現として姿を現すこともある。つまりこういう使用実態をいろいろと検討してみると、「しょうがない」という慣用表現は、そう発語されない陰翳の部分、つまり「沈黙」によって全体の適用範囲が支えられていることがわかる。その場合、どの意味合いに確定されるかは、文脈と発語の調子に依存していると言えるだろう。

 もうひとつ例を挙げておこう。
おかげさまで」という言葉がある。この言葉は、無事何ごとかが成就した時に何者か(普通は世話になった相手)に向かって感謝の気持ちを表す表現だが、考えてみるとなかなかに玄妙と形容すべき言葉である。その玄妙さは二つの面に現れている。
 まず第一に、いま私は「何ごとかが成就した時」と書いたが、この言葉は必ずしも特定のものごとの成就の際にのみ使われるのではなく、平々凡々たる暮らしがつつがなく送られているときにも「おかげさまで何とかやっています」というような使われ方をする。いわば「おかげさま」は西洋における「神」に匹敵するといってもよい。西洋人もまた、一日の終わりや食事の前などに、神への感謝の祈りを捧げる習慣を続けてきた。「おかげさまで何とかやっています」には、これと共通する心情が認められる。
 もちろんそれは、西洋の「神」のように唯一神信仰としての超越的な強度を保持してはいず、何となく私たちの周囲でいつも見守っていてくださる祖霊であったり、自然や家屋のどこそこ、厨房や便所に宿っていたりする、身近で親しみのある雰囲気を備えた神さまである。しかしじつは西洋の場合も、信仰心の一番素朴な(原始的な)情緒の層まで降りてみれば、これと事情は同じであるに違いないと私は考えている(例:マリア信仰など)。世界共通の素朴で具体的な信仰心(人間に特有の生の不安を自己慰撫しようとする心、周辺世界を自分たちにとっての物語で彩ろうとする心)を基盤として、そこに特定の文化風土に根差した抽象化による統合を施したところに、一神教的な表象が成立したのであろう。わかりやすくたとえれば、世界への人間の水平的なかかわり意識を、垂直的なものに仕立て上げたのである。この仕立て上げは、その文化風土にとって必然的であった。
 ところで、試みにインターネットの「語源由来辞典」でこの「おかげさま」という言葉を引いてみると、次のように書かれている。

 おかげさまは、他人から受ける利益や恩恵を意味する「お陰」に「様」をつけて、丁寧にした言葉である。
 古くから「陰」は神仏などの偉大なものの陰で、その庇護を受ける意味として使われている。
 これは、「御影(みかげ)」が「神霊」や「みたま」「死んだ人の姿や肖像」を意味することにも通じる。
 接頭語に「お」がついて「おかげ」となったのは室町時代末ごろからで、悪い影響をこうむった時にも「おかげさま」が使われるようになったのは江戸時代からである。


 この記述で興味深いのは、真ん中の二つの文である。神仏の名を直接呼ばわってそのご加護を表明するのははばかられるので、その姿の「影」のお裾分けを自分もまた与っているというわけであろう。また、死者の肖像を「みかげ」(現代では「遺影」)と呼ぶのも、柳田国男などが強調した日本の祖霊信仰、死んだ近親者に対する尊重の気持ちの強さに結びつくので、言われてみればたいへん納得がいく話である。
 第二の玄妙さは、同じことだが、この言葉が、必ずしもお世話になった直接の相手をいつも指しているわけではないという点である。

医者「どうですか、調子は?」
患者「はあ、おかげさまでだいぶいいようです」


 この場合、常識的に考えて、患者がおかげをこうむっているのは、診察してもらっている医者ということになる。しかしこうした場合でも、感謝の対象は目の前の医者だけに向けられていると考えると、この言葉の含みや広がりを包摂したことにならない感じが残る。貧しいイスラム教徒に乞われて金を施すと、彼らは金をくれた人に感謝の情を表さずに、何よりもまずアッラーに感謝するという話を昔聞いたことがある。話してくれた知人は苦笑していたが、これはあながち見当違いな態度とは言い切れない。このケースを一つの極点と考えると、もう一方の極点にもっぱら当の個人に礼を述べるという「近代」的な態度があるだろう。「おかげさまで」という言い方は、その中間に属するとみなせるのではないか。つまり、調子がいいのはもちろん医者の施療の「おかげ」なのだが、そういう出会いと仕合せにめぐり合わせてくれた何者か(神さまのようなもの)、そのぼんやりとした運命の連関に対しても「おかげ」をこうむっているという気持ちが、この言葉にはもともと込められていると考えられる。
 もちろんまた、先の「語源由来辞典」にあったように、「おかげさまでひどい目に遭いましたよ」などの皮肉な用法があるから、そこにもこの言葉のもつニュアンスの広さがうかがえるだろう。
 さてこのように考えてくると、「おかげさま」も、「しょうがない」と同じように、それが使用される文脈しだいで、さまざまな意味の広がりを持つことがわかる。そうしてその意味の広がりに力を与えているのは、その発声された言葉や文字面自体ではなく、むしろその言葉が背後に備えている陰翳の部分である。これを発語が沈黙によって支えられている一例と考えても、あながち牽強付会とは言えまい。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿